今成村(入間郡・河越領)

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今成村は河越城より坤の方十二町を隔つ、江戸より十二里(47km)の行程なり、机伝ふや川田備前守今成と云人、爰に来りて開墾せし故に、其名を以て村に名づくと、山田庄の内なり、家数三十八、東は小久保村・町郷分に隣り、南は野田・小室の二村に境ひ、西は小ヶ谷村にして、北は上寺山・宿粒の二村に接せり、東西八町(827m)、南北十二町(1300m)、水田多く陸田少し、用水には天水か湛へて耕す、水旱共に患なし、検地は慶安元年(1644年)松平伊豆守信綱、承応二年(1653年)・寛文元年(1661年)には伊豆守輝綱糺せり、又武蔵野新墾の地あり、村より南に当りて一里(3.9km)許を隔てり、「北条役帳」に二貫四石六十五文此外九十一貫四百文は、乙卯増河越今成字野源十郎知行する由を載す、此乙卯は弘治元年(1555年)なり、御入国の後は始終河越城附の村なり、

高札場

村の西にあり、

小名

川田

赤沼

石川

熊野社

村の鎮守たり、

天神社

氷川社

以上三社とも村内安楽寺の持、

安楽寺

金縄山広厳院と号す、天台宗、仙波中院門徒なり、本尊釈迦を安ず、

薬師堂

薬師は坐像にして長七寸許、行基菩薩の作なりと云、又別に一体あり、秘仏なりとて二重の厨子に安じて扉を開事無、土人云是鎮守熊野社の本地仏ならんといへり、

弁天社

天女の左右に、十五童子此び毘沙門・大黒等の像を安ず、

今成屋敷蹟

村の西にあり、当村を開墾せし川田今成が居住せし所なり、此今或は備前守と称し、北条新九郎が子孫なりと云伝ふ、新九郎は早雲なるか、又氏綱なるや詳ならず、今農民喜太夫なる者は、其子孫なりとて爰に住せり、尤川田を氏として、三ッ鱗を家の紋とす、又云川越蓮馨寺の開基大道寺駿河守が伯母、蓮馨尼此所に寄留せしと、是北条の縁家なればにや、兎角詐なることを知ず、

月吉屋敷蹟

村の巽(南東)の方なり、今は陸田となる、其広さ二段四畝許、【廼国雑記】を閲るに河越といへる所に至り、最勝寺といふ山伏の所に一両夜やどりて、〈中略〉また月吉といへるものゝふ侍り、いさゝか連歌などたしたみけると なん、雪の発句を所望し侍りければ、いひつかはしける、庭の雪月よしとみる光かな、是に拠れば月吉は文明の頃の人なること知ベし、

日吉屋敷蹟

村の坤(西南)の方にあり、今陸田となり。広き一段二三畝の地なり、日吉は当所を開墾せし人なりと云のみにて其伝の詳なることを知らず、想ふに月吉に対して日吉と号する時は、共に其人の号にして別に姓名有しなるベけれど、今より考ふベからず、

神田屋敷蹟

今の名主喜兵衛が居屋敷の内にあり、右に云る川田・月吉・日吉と此神田を加へて、都て四人当所を闢きし人なりといへり、