松郷(附新田)

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松郷は仙波新田より城下町への取付にあり、江戸への行程は十二里(47km)に及ぶ、三芳野里山田庄に属す、村名の義は既に上松江町に記せしごとく、古は松江と書て漢土の松江に擬せしと云説あれど、現に埼玉郡騎西町大英寺に蔵する、弘治二年(1556年)北条家より出せし文書、及び正保改の郷帳にも松郷と載たれば、全く郷江字草書体相似たるより、たまたま松江と誤り記して附会せしものなるべし、今村内を中松郷・下松郷と分ち呼べり、上松郷は後年町となりしゆへ、中下の名は残りしなりと、又下松郷の内に六軒町・大工町など云小名あり、こゝはかの城下町に続きたれば、いつとなく町家軒をならべて町名の唱あれど、尚郷村に隷すと云、下小名の条見合すべし、村の広さ東西二十八町(3km)余、南北七町(760m)許、民家二百九十余、かの町並に住し、農耕のいとま種々の物をひさぎて生産を資く、村の四境東は伊佐沼村に及び、南は大仙波・脇田・野田の三村に接し、西も亦野田村にて、北は志義町・上松江町、及町郷分にいたる、土地平にて水田多く陸田少し、水の便あしきを以てしばしば旱損す、領主のことは城に付て遷りかはれば是に贅せず、検地は慶安元年(1648年)松平伊豆守領せし頃糺せり、夫より後延宝三年(1673年)・元禄七年(1694年)松平美濃守武蔵野新墾の地を検せり、其他は当所より南の方一里(4km)許をへだてゝ、今福中福砂久保等の村々にそひてあり、

高札場

江戸より城下町へ往街道の入口にあり、

小名

大工町

志気町の大道の内にて、北の方へよりたるところ西へ折れてゆく道なり、昔工匠の開きし町なるゆへかく名くと、今この小路の東側は侍屋敷となれり、

中原町

大工町の西に続けり、此所に昔切支丹の者を入をきし、牢獄ありしと云、是は元の城主松平伊豆守信綱天草陣のとき、生捕にせしものをつなぎ置し所と云、こゝも東側は侍屋敷となれると云ふ、

六軒町

中原町の北の続きなり、昔橋本勘解由と云人始てこゝ に住す、その頃家数わづかに六軒ありしゆへ、この名起れりと、町の未の方をば喜之助町と云、

通組町

南の方より城下町へ入る所なり、大仙波・脇田仙波新田等入会の地なり、此所に組屋敷あり、江戸への往還なるを以てかく呼ぶとぞ、町の東の後に赤座と云所あり、昔藜某と云者開きしゆへ、その氏を以て小名に呼べりと、今はみな侍屋敷なり、

鉄炮町

上松江町より猪の鼻町へ通ふ所なり、元此所は茶園のありし所なりと云、伊豆守信綱領主たりしとき、鉄炮鍛冶国友佐五右衛門と云者を呼下しておきしゆへ、此町名のこれりと云、

瀬尾町

西の方にあり、昔北条家に仕へし瀬尾下総守と云人住せしと云、其詳なることをしらず、今は侍屋敷となる、

久保町

南久保町・清水町等侍屋敷の南にそひて、東西の小路なり、

境町

妙瀬町

土器(カワラケ)町

広町

柏田町

矢取

番匠兔

小屋坪

権現前

赤田

柿木橋

塚田

留岡

長兔

高まゝ

松原

紅田

萌地

六反屋敷

松井屋敷

ゆな川

城の南の方を流るゝ小溝なり、此川の東北の方はすべて萱葭生ぜし沼なり、水底に水の涌出する穴七つあり 是を七つかまと呼ぶ、此沼至て深く、ことに彼七かまなどありて、人馬の足たゝざることなれば、城の為には倔強の要害なりと云、又沼の中に嶋のごとく築て稲荷社を立つ、依て浮嶋稲荷といひ、又いかなるゆへにや、末広稲荷といふ、持宝院の持、

九十川

村の東の堺へ少くかゝれり、川幅は六間(11m)ばかり、

牛来橋

久保町へ取付の小橋にて、小渠に架す、昔尊海僧正の乗り来りし牛車の止まりし所ゆへ、かくなづけたりといふ、

稲荷社

昔此辺原野なりし時、久太郎狐と云野狐すみて人をたぶらかせしにより、稲荷にいはいしと云、時村民次右衛門の持、

持宝院

三宝院派の修験なり、

褒善藤右衛門

市川を氏とす、藤右衛門は篤実なるものにて、村方の治方宜しく奇特なりとて、領主大和守より永々苗字を名乗、且帯刀すべきことを許せりと云、

褒善きよ

百姓吉兵衛が姉なり、母に孝行なるにより、領主より褒賞して、扶持米一口を与ふと云、