大塚村(入間郡・河越領)

公開日:
目次

大塚村は河越城より坤(西南)の方一里(4km)を隔て山田庄に属す、此村は慶長十一年(1606年)藤倉大膳と云もの開発せる由言伝ふ、されど【廻国雑記】に佐西をたちて、武州大塚の十玉が所へまかりける云云とあり、大塚の地名は此郡のみに非ず、近郡にもあれど爰に云る佐西は、高麗郡篠井ならんには、ありきし次てよければ大塚は爰のことなるべし然んには慶長年中(1596年~1615年)全く開発と云は覚束なし、旧くは文明(1469年~1487年)の頃かく大塚の名も沙汰あれば、若くは其頃はさせる村にもあらさりしを、其後藤倉大膳など云者移りきて、再び興して今のざまとはなりしなるべし、十玉の遺蹟は伝へざれど、郡内南畑村にあれば并せ見るべし、東は大塚新田・大袋の二村に隣り、南は中台村、西は青柳村、北は又大袋村と同き新田及び豊田本村に界ふ、東西五町(550m)、南北十六町(1.75km)、陸田のみ開き旱損あり、江戸への行程前村に同じ、検地は(1675年)松平伊豆守糺せり、其後元禄七年(1694年)柳沢出羽守が領せし時、武蔵野新開の処を検せり、古より河越城附の村にて、今は松平大和守が領分なり、

高札場

村の南端にあり、

小名

六塚

塚ありし故の名なるべけれど、今は塚なし。

天神社

社前に梅樹数十株あり、村内西福寺の持、

稲荷社

西福寺

本宮山地蔵院と号す、天台宗、仙波北院の末、本尊弥陀を客殿に安ず、開山開基を伝へざれど、客殿の縁に寛永三年(1646年)当寺第十五世詮海とえりたる半鐘を掛たれば、此以前の草創なること知るべし、

三峰社

観音堂

正観音を安ず、村内西福寺の持なり、