豊田本村(入間郡・河越領)
豊田本村は【北条役帳】にのせて御新造知行分六拾貫九百六十四文、豊田卯検地辻とあるは此地なるべし、又大袋村の条に見えたる、其村の民孫兵衛が所蔵せる天正十八年(1590年)禁制の文にも、豊田の地名あれば、とにかく旧くよりの地なることは論なし、此村河越城より坤(西南)の方二十六町(約2.8km)を隔て、江戸より行程十二里(約47.1km)、山田庄に属せり、東西二十町(約2.18km)、南北(約1.4km)余、東は野田村及び其新田に境ひ、南は大袋村同新田に接し、西は池辺村に交り北は小ヶ谷村に隣れり、陸田多く水田少し、民戸百廿余、村内東の方野田村より、南の方大袋新田に通ぜる一条の往還あり、河越より八王子への道なり、御入国の後稲冨宮内・蜂屋源右衛門・柘植甚八郎等の知行に賜はり、後元禄年中(1688年~1704年)柳沢出羽守河越城主たりし時城付の村となり、其頃出羽守検地せしことあり、後又松平大和守が城主となりし時も同じ、城付の領にて夫より今もかはらず、
高札場
村の中程にあり、
小名
鍛冶屋山
寺家
石田
安生老村
東の方にて八王子道の左傍三町(約327m)余の所、 廿八軒並び居り、砥石売買のことをなせり、爰に白山社あり、本地は十一面観音を安ず、往古は仙波北院の境内に居りしが、御宮御造立の時彼地を退られ、当所の原野なりしを開ひて、爰に移れる由、其内二人小頭といへるあり、彼等が先祖へ甲州武田家より出せし、天正四年八月七日(1576年)跡部大炊助奉りの文書あり、其文をもて見れば、天正(1573年~1592年)の頃は上州に住し、旧くより砥石売買をなせしこともしらる、安生老の名義に村民の話あれども、元より無稽のことなればこれもとらず、
赤間川
村の坤(南西)より艮(北東)へかゝれり、大袋・池辺両村の間より入、小室村へそゝげり、
聖天社
神明社
二社とも村民の持、
白髭社
村内及び新田の鎮守にして、勧請の年歴は伝へざれど、寛永三年(1626年)の棟札あれば大抵推て知ベし、神主山畑豊前は勝呂住吉の武士にて、勝呂雅楽が配下也、
山王社
神明社
稲荷社
三社とも村民持なり、
善長寺
曹洞宗、龍ヶ谷龍穏寺の末、豊田山と号す、開山は本寺七世節庵良筠、天文十三年十月廿八日(1544年)示寂、開基は豊田隼人、法名善長天文元年八月廿一日(1532年)死すと、されど此人は元三州に住し、小笠原摂津守安元に属し、御入国の時安元郡内入間川村の地を賜はりし故、家臣隼人移てこゝに居れり、しかるに此人の家より失火し、村内及び奥富村も此災に罹りしかば、隼人こゝに居ること能ずして、当所に来りこの村を開発せし故、村名となれりなどいへど、小笠原氏の譜を案に摂津守安元は天正十七年十一月晦日(1589年)三州に於て卒せしと云へば、安元の男太郎左衛門安勝御入国の後、入間川村を賜りしなるべし、然れば天文元年(1532年)に死せる豊田氏の入間川村に住せしと云は、其謂れ疑ふベきに似たれど、姑く伝るまゝを記せり、本尊正観音を客殿に安ず、正徳二年(1712年)の銘をえたる鐘を客殿の軒にかけたり、
稲荷社
白山社
太日堂
村民の持なり、
薬師堂
薬師は坐像にて長一尺(約30.3cm)許、仏師春日の作と云、善長寺の持なり、