大袋村(入間郡・河越領)

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大袋村は河越城より坤(南西)の方三十町(約3.3km)を隔て、江戸より行程十二里(約47.1km)、此も三芳野里の内にて山田庄に属せり、【北条役帳】に新藤下総守三十八貫弐百廿九文、河越卅三郷大袋とあり、又村民孫兵衛が所蔵の文書にも、山田庄河越卅三郷の内大袋郷とあり、孫兵衛が文書は左に載す、

  • 一 於当郷不撰侍凡下、□□(自然)御国御用之砌、> 可被召仕者、撰出其名を可記事□□□、
  • 一 此道其弓鑓鉄炮三□□□(様之内)、何成共存分次第、但鑓は竹柄にても木柄にても、二間(約3.64m)より短は無用に候、然□(者)号権門□□不致陣役者、或商人、或細□(工)人絹十五七十を切而可記之事、
  • 一 腰さし類之ひらひら武□(者)めく様に可致支度事、
  • 一 よき者を撰残し、夫同□□(前之)者申付候はゞ、当郷小代官何時も聞出次第可切頸事、
  • 一 此走廻を心懸相嗜者は、侍にても凡下にても隨望可有御恩賞事、

已上

右自然之時之御用也、八月晦日を限に、右之諸道具可致支度、郷中之請負□□(其人)交名以下を者、来月廿日に触口可指上、仍如件、

虎印あり

丁亥七月晦口 恐は天正十五年(1587年) 代官

大袋百姓中

禁制

山田庄河越卅三郷之内
とよ田郷
池辺郷
大袋郷

已上

  • 一 軍勢甲乙人濫妨狼藉之事、
  • 一 放火之事、
  • 一 対地下人百姓非分之儀申懸事、

右条々堅令停止訖、若於違犯之輩者、速可被処厳科者也、

太閤朱印

天正十八年(1590年)五月

当所の村名を尋るに、古は此地新田の峡下迄入間川流れ入て其様袋の如くなれば、此名を負へりと云、東西六町(約655m)南北へ四町(約436m)に余れり、東は豊田本村に境ひ、南は大塚村及び此地の新田に続き、西は増形村に隣り、北は池辺村に接せり、民戸八十六、陸田多く水田は少し、村内の清水をのみ用水となせば、動もすれば旱魃の患あり、検地は前村と同じく松平伊豆守糺し、後又明暦二年(1656年)・延宝三年(1675年)の二度に新田の地有て、是も伊豆守が糺せしことあり、領主は慶長(1596年~1615年)の頃酒井備後守が釆地に賜はり、正保年中(1644年~1648年)松平伊豆守に替り、後又松平美濃守に賜はり、美濃守甲州へ領地を替へられしより、旗下人の河村喜三郎が知行となり、今も河村氏の知る所なり、

高札場

村の中程にあり、

小名

宿屋敷

中堀

達磨

常光淵

赤間川

東陽寺の傍より湧出し、村内二町(約218m)許流て豊田本村に通じ、夫より伊佐沼村迄至れり、其間所々用水となせるなり、

白髭社

永禄年中(1558年~1570年)勧請の由、増形村本明寺の持なり、

薬師堂

稲荷社

東陽寺

曹洞宗、多磨郡平井村宝光寺の末、孤峯山と号す、開山明鑑、永禄十一年(1568年)正月六日示寂、本尊釈迦大猷院殿の御時、山林竹木諸役免除寺領十石の御朱印を賜りしより、今も御朱印の地なり、本堂山門惣門あり、鐘楼門に懸る鐘は天和二年(1682年)の銘を彫せり、

白山社

地蔵堂

東陽寺の持、