菅間村(入間郡・河越領)
菅間村は河越より艮(北東)の方三十町(約3.3㎞)を隔つ、江戸より行程十二里(約47.1㎞)、山田庄と唱へ、三芳野の里とも云ふ、民家百十、村の四境東は石田本郷に隣り、南は谷中・石田・府川の三村に交り、西も府川・高畑の二村に犬牙し、北は入間川の中央を限り、比企郡釘無村なり、東西十一町(約1.2㎞)に過ず、南北九町(約982m)に余れり、水田多く陸田少し、用水は前村と同じく入間川の水を沃げり、村の東の方に比企郡の村々より河越への小道かゝれり、入間川の渡より村内に入て谷中村に通ず、慶安元年(1648年)時の領主松平伊豆守信綱検地す、領主の遷替は前村と同じ、
高札場
村の東にあり、
小名
上菅間
白馬
下菅間
長沼
森寄
石神
かま新田
高繩
なかさく
油免
入間川
村の北にあり、西の方高畑村より比企郡の郡境を流れ、同郡河口村へ入る、川幅五十間(約91m)、川に添て堤あり、入間川堤と呼ぶ、此川昔は爰より石田本郷へ入り、夫より下流古谷上郷まで、今の流れより少し南の方へよりて流れ、此辺皆入間川を郡境と定めしが、年々水溢の患絶ずとて、農民等愁訴に及びしかば、延宝八年(1680年)伊豆守信綱其家人等に命じて、今の如く当村より比企郡の内へ新川を掘り、水路を替しより石田本郷へ流るゝものは古川と呼び、本郷より鴨川村まで此古川を郡界とせり、按に延宝(1673年~1681年)の頃信綱が掘しと云は、時代相違せり、信綱が歿せしは寛文二年(1662年)なり、延宝(1673年~1681年)に水路を変ぜしなれば、信綱が孫伊豆守信輝が時にあたれり、此川中比企郡への船渡あり、
神明社
村内観音寺の持、
稲荷社
同寺の持、
観音寺
天台宗、仙波中院の門徒、正法山と号す、本尊観音を安置せり、
弁財天社
円光寺
是も中院の門徒、山号なし、開山は伝へざれど、境内に権大僧都豪園、寛文五年(1665年)十一月廿一日と彫たる碑あり、是も歴代の内なりと云へば、是より先き開けし寺なるべし、本尊は大日を安ぜり、
観音堂
千手観音を安ぜり、観音寺の持、
弥陀堂二宇
共に観音寺の持、
旧家者甚八
竹谷を氏とす、家系は伝へざれど、先祖を竹谷藤七郎或は勘解由とも呼て、北条分国の頃は府川村にて、五貫文の地を大野縫殿助と両人にて領し、其村の小代官を勧めし者なり、其時の書及び文書総て三通を蔵す、その文全く府川村にかゝる物なれば、其村の条にのせたり、
褒善者織右衛門
村の名主なり、母に事ること厚く、且廉直にして其職に怠らざりしかば、天明八年(1778年)領主大和守より賞として、青鋼一貫文を与へしと云、