寺井宿・寺井松郷・寺井伊佐沼(入間郡・河越領)

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寺井宿・寺井松郷・寺井伊佐沼は、今は全く三村に分てども古は寺居と書す、総て東明寺持の地なりしに、此寺衰へて後何の頃か三村に分たれしかども、元一村なれば田地入会て境界分れずと土人云へり、故に姑く三村を合せて云に、川越の城下町・下町橋の方に続きたる村にて、町の高札よりは僅に七町(約764m)許を距り、江戸よりは行程十二里(約47.1㎞)余、山田庄に属せり、東四六町(約655m)許、南北へ三町(約327m)程、四境は東方北田島村に隣り、南は川越城下町、西は小久保・小ヶ谷・上寺山の三村、北は石田・府川・向小久保・谷中の村々なり、水田多く陸田少し、用水は赤間・入間の二水を引用ゆ、民戸百余の内物商ふ家は城下町より左折する道の左右にあり、此間六町(約655m)余、比企郡松山町へ達する道なり、又城下町の内下町橋を出て右の方へ折ぬれば、鴻の巣桶川への街道にて向小久保村に至る、人家此二条の左右に並べり、此村開発の初は詳にせざれど、天文(1532年~1555年)の頃島津長徳軒、松井伊佐沼・寺井伊佐沼の地を領せし由物に見えたれば、是より前開けし村なるべく、其後永禄中(1558年~1570年)改定の【北条役帳】に二百十三貫三百三十一文寺井卯検地辻山中内匠助とあり、此寺井は今の寺井三ケ村の内なるべし、検地及び領主の遷替前村に同じ、此外寺井宿分の持に属せる武蔵野開三町(約3ha)余郡内中台村にあり、又同所に寺井伊佐沼に属せる武蔵野開三町(約3ha)あり、この二ケ所は寛文元年(1661年)に検地あり、其余寺井宿・寺井・伊佐沼分の武蔵野開共に中台村にありて、延宝(1673年~1681年)・元禄(1688年~1704年)の間におひおひ検地せしと云、

高札場

城下町下町橋の方へ入所にあり、寺井三ヶ村東明寺村町郷分、すべて五か所の高札なり、

小名

柳橋

境みそ

山伏町

宿理

赤間川

入間川

天神社

寺井伊佐沼分の内にあり、城内高松院の持なり、

永林寺

寺井松郷分にあり、禅宗洞派、近江国栗太郡浮気村源昌寺の末、興雲山と号す、開山巻岑文舒寛永十七年(1640年)九月廿六日示寂、開基は玉宝栄琳大姉慶長五年(1600年)八月六日卒す、酒井備後守忠利の伯母なり、されど其実は慶安三年(1650年)五月三日に寂せし当寺の二世、嶺室文雪が草創にて、己は其任に当らず、彼巻岑文舒を勧請して、開山とせしと寺僧は伝へり、本尊釈迦を安ぜり、寛永十一年(1634年)酒井讃岐守忠勝家臣よりの旧記、今当寺に残れり、

天照太神第六天白山権現合殿社

秋葉社

稲荷社

以上三社は慶安三年(1650年)の動請なり、

真行寺

寺井宿の内也、至誠山成就院と号す、一向宗、京東本願寺末、開基真行尼は武田信玄の妹なり、武田勝頼没落の後、若山某・岩崎某の二人に懐抱せられて、郡内上吉田村に姑く住し、夫より城下町の内改めと云処に移り、夫より今の所へ来り一寺を建立し、己が名をもて寺号とせし由、卒年は伝へず、按に真行尼は武田信玄の女子なりと物には見えたれど、寺伝には妹なりと云、何を実とも今より断ず可らざれば姑く寺伝に従ふ、彼若山・岩崎の子孫今横見郡荒子村に残れりと云、当寺第二世は、武田勝頼が妾腹の男子なりしと伝るのみにて、是も卒年は伝へず、第三世正因は正保二年(1645年)六月晦日に寂せし由、其後八世の住僧故有て退院せし時、総て旧記を失へり、本尊弥陀の立像長二尺(約60.6cm)春日の作なり、

太子堂

太子十六歳御時の御形を写せしものにて、立像長四尺(約121.2cm)許、御頭許は御自作なりと云、