宿粒村(入間郡・河越領)

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宿粒村は河越より北纔に八町(約873m)を陥つ、江戸より行程は河越町に同じ、山田庄に属す、村の開けし年代を伝へず、想ふに古へ宿駅など有し故に、此名は起りしも知るべからず、応永十三年(1406年)越生友衛門が管領家へ呈せしと覚しき文書あり、今市村法恩寺の年譜録に見ゆ、其文に、吾那安芸守光泰申、武蔵国河越庄宿料郷内、越生八郎入道跡、同国同郷内武兵衛入道跡、同国塩谷九郎四郎跡等事、任被仰下之旨相触候之処、各捧請文謹令進覧之候、以此旨可有御披露候、恐惶謹言、十月十五日、左衛門尉憲忠、宿料は即宿粒なるべしと云、是に拠れば応永(1394年~1428年)の頃は越生氏の領地にして、河越庄と唱へしこと知べし、其後永禄(1558年~1570年)の頃は北条家人の知る所にして、彼家の役帳に、関兵部丞卅八貫文、河越卅三郷宿立元山中孫七郎知行と載たり、又土人も昔或は宿立とも書せし由を伝へり、仮借して書しものなるべし、村の四境東は府川・向小久保・志垂の三村に交り、南も又向小久保及び今成村河越町郷分に犬牙し、西は上中の寺山村にて、北は網代村或は入間川堤を界ひて高畑村なり、東西僅に三町(約327m)許り、南北は長く三十五町(約3.8㎞)に余れり、家数四十、水田多く陸田少し、用水は上下寺山村の境にて、入間川を堰来りて水田に灌げば、水旱共に患なし、村内に二条の道あり、一は江戸より秩父への通路にして、小久保村より入、下寺山村に至る、一は比企那松山への道にして、向小久保より入網代村に出、河越城附の村にて検地は慶安元年(1648年)・延宝九年(1681年)の二度時の領主より糺せり、又村の南奥富村の続きに新田あり、僅に一町五段四畝十四歩(約1.53ha)の陸田なり、延宝三年(1681年)領主伊豆守信輝検地せり、

高札場

村の南にあり、

小名

喜楽坊

向堂

堂木まヘ

したり関

たこのて

本村

古谷戸

鴻ノ免

長島

くろかひと

村の巽にあり、僅四百坪(約1.322平方m)許りの池なれど、大旱にも涸れず、旱魃の頃は、当村はもとより近村までも用水となせり、

入間川の水除にして、下寺山村より当村に続き府川村に達す、此堤の外は高畑村なり、

八幡社

村内の鎮守なり、府川村吉祥院の特、

浄国寺

時宗、相模国藤沢宿清浄光寺末、天王山清流院と号す、開山他阿真教元応元(1319年)己未正月廿七日寂す、本尊は弥陀を安ぜり、

天王社

愛宕社

観音堂

観音は十一面なり、志垂村安養院の持、