南入曽村 附新田(入間郡・河越領)
南入曽村は元一村にして其分ちもなかりしに、何の頃よりか南北の唱へあり、天正(1573年~1592年)の頃の水帳に已に北入曽としるせば、此頃はや分ち唱へしこともありしなるべし、慶安の頃入磯村と記せしものあれど、是は仮借せしならん、此村は山田郷吾妻庄に属す、領は山口に属せりともいへり、河越城の坤(南西)の方三里(約11.78km)許にあり江戸よりの行程十里(約39.27km)余、村の広狭は東西南北共に大抵三十町(約3.27km)に徑り、東は堀金村、西は藤沢村、南は水野村、北は則北入曽村なり、正保(1644年~1648年)の頃は御料及び瀬名市郎左衛門が知行うち雑りしが、其後市郎方衛門が知行は故あって収公せられ、すべて御料となれり、安永六年(1777年)に至り、又村内を裂て長野佐左衛門に賜へり、検地は延宝五年(1677年)御代官設楽孫兵衛・今井九右衛門等承りて糺せり、
高札場 二ヶ所
一は村の中程にあり、一は西の方にあり、
小名
瀬戸
本橋場
桑原
出口
きとは
古市場海道
山王塚
塚十ヶ所
その二は堀金村の接地にあり、その八は水野村の境によりてあり、共にその由来は伝へず、
御嶽社
村の鎮守なり、社領として慶長二年(1597年)十石の御朱印を賜はる、当社は古き勧請なるにや、近き頃まで文明二年(1470年)庚寅三月日惣旦那と鐫たる鰐口などありしと云、
別当 金剛院
社地を隔ること二町(約219.18m)許にあり、新義真言宗、成木村安楽寺の末なり、御嶽山延命寺と号す、不動の坐身を本尊とす、
稲荷社
天満宮
神明社
大日堂
地蔵堂
以上共に金剛院の持、
堀兼井跡
村内金剛院の後なる藪の中に古き穴あり、昔はよほど広かりしが、今は僅に地くぼみたるのみなり、入間郡堀兼井は古歌にも読て世に聞えたる名所なれど、其所まちまちにて何れを実跡とも定めがたし、たゞ隣村堀金村にある者は、昔より村名ともなりし事なれば、是を実跡とすべき歟、猶委しきことは其条下にしるせり、
旧家者仁左衛門
小沢を氏とす、入曽の十二衆とて、北条陸奥守に属せしその一人に、小沢高中と云あり、かれが子孫なりといヘり、家に天正十四年(1586年)記せし奥州様御扶持人覚と云ものあり、その文に、
武州入曽村拾弐衆
上州かむう川(神流川)みちん(道)へ出候分覚
木下越後 はゝ与右衛門
仁神山城 伊つか新七
同与右衛門 木下才兵衛
原島門所 伊藤新右衛門
小沢高中 田中けき
前島伊門太 小玉新左衛門
天正拾四年巳正月三日
但天正十四年は丙戌なり、巳といへるは誤なるべし、
南入曽新田
南入曽新田は本村の南十二三町(約1.31km~1.42km)にあり、武蔵野新開の地にして、民家もなく、本村持添なり、宝暦八年(1758年)伊奈半左衛門検地すと云、今も御料所に属せり、