堀金村(入間郡・河越領)
堀金村は、北入曽村の西に並べり、山田庄に属し、此辺を三芳野里と唱ふ、村の広狭東西の径二十四町(約2.62㎞)、南北八町(約872.7m)許にて、東は中新田に接し、南は赤坂村にそひ北は風下村、西は北入曽村なり、当村は正保年中(1644年~1648年)改定の地図及び其頃の郷帳にも村名にはのせざるを見れば昔は近郷に隷せし原野なりしとみゆれど、名にたてる堀兼井のある処なれば、往古より地名となりて、たゞ堀金とのみ唱へしならん、【太平記】元弘三年(1333年)五月新田義貞謀叛の条に、相模入道の舎弟四郎左近大夫入道慧性十万余騎の大将軍となりて、十五日の未明に分倍へ押寄、義貞の勢を襲ひたりしに、義貞終に打まけて堀金を指て引退くとあり、されど此頃は此辺なべて渺茫たる武蔵野の曠原なれば、必しも当所のみを指せしとはおもはれされど、既に地名に唱へしことは明けし、又堀金と云名義は、井跡の条にしるせり、検地は承応年中(1652年~1655年)新墾の改あり、次て延宝三年(1675年)再検地ありて、租米の員数を定めらる、此頃は松平伊豆守が知る所なりしと云、今は松平大和守が領地なり、
高札場
村の中程にあり、
小名
極印塚
西原
浅間社
高二丈(約6.06m)許なる塚上にあり、石階を設けて其下に仁王門及社守の庵を建つ、
別当 心静院
天台宗、河越城内高松院の末なり、井上山と号す、昔は慈雲庵とも称せしと云、
稲荷社
河越城内高松院末、
山王社
村内光英寺持、
平戸明神社
村民の持、
光英寺
新義真言宗、江戸大塚護持院の末なり、堀金山山王院と号す、正徳二年(1712年)栄俊法印と云し人起立する処なりと云、
堀兼井跡
村の東南浅間塚の辺にあり、円径四間深さ一丈(約3.03m)許の穴なり、近き頃其中に石を以五尺(約1.52m)四方の井筒を組、側に宝永五年(1708年)秋元但馬守喬知が、家人岩田彦助なるものに命じて立たる碑あり、其文もあれど考へと成べきものにあらざれば、略して載せず、按に此井の名は古くは【枕草紙】に井は堀かねの井と見えたり、されど何れの国なることは載せず、たゞ【千載集】に藤原俊成卿の歌をのせて、武蔵野の堀かねの井もあるものをうれしや水の近づきにけり、とあるをみれば当国にて名だゝる物なることしらる、かく俊成卿の詠に入しより、後は全く当国の名所と定りて、世々の歌人も其詠多くして偏く人の知る所なれど、其旧跡は詳ならず、今伝ふるは当郡は元よりなり、他の郡にも堀兼の井跡と称する井余たありて、何れを実跡とも定めがたし、されど既に村の条下にしるせる如く、元弘三年(1333年)五月十五日相模入道の舎弟四郎左近大夫入道慧性分倍へ押寄攻たりければ、義貞終に打まけて堀金をさして引退けりと云、すなはちこの所なるべし、ことに後年全く村名ともなせしがれば、恐くは当所のを実跡とすべきか、又【回国雑記】に堀兼井見にまかりて読る、今は高井戸と云とあるに由れば、多磨郡高井戸宿に堀兼井の旧跡あるに似たれど、今其地につきて尋るにそこと覚しき所もなく、村老もかゝる古跡のことは聞も伝ずといへば、高井戸と記せしは、たゞ井戸と云名によりて、其頃あなひ(案内)せしものゝ妄に伝へしも亦しるべからざれば、是らは尤信じがたし、