砂久保村(入間郡・河越領)
砂久保村は河越城の巽(南東)一里(約3.93㎞)許にあり、江戸よりは九里(約35.34㎞)余の行程なり、東西八町(約827.7m)、南北四町(約436.4m)余の村にて、東の方は砂新田に接し、北は岸村、西南は今福村に並べり、当村古くは広原にて、天文年中(1532年~1555年)河越城攻の時、寄手上杉憲政が陣取し処なり、その後正保(1644年~1648年)の頃より開墾して、近郷と同く延宝三年(1675年)松平伊豆守検地して、租税の数も定められしと云、こゝも世々河越城主の領する処なり、
高札場
村の東によりてあり、
小名
竹原
里人の説によるに村内を概したる惣名なりと云へば、砂久保村の開けざる前、原野なりし時の名と見ゆれば、小名とは称しがたし、村の古名とも云べきか、
宿
巽(南東)より乾(北西)の方へ達する往来、両辺に民家並びたるところを云、
小はけ
みつけ
稲荷社
村の鎮守なり、隣村砂新田にある大蔵院の持なり、
上杉憲政陣所蹟
今世に聞へし河越夜軍の時の陣跡なり、其所定かならず、【小田原記】等を見るに、天文十四年(1545年)九月二十六日上杉兵部大輔憲政、八万余の大軍を将て砂窪に旗を立、先勢をして河越を攻しむ、又古河の晴氏は憲政に加勢として、同き十月二十七日河越に出馬ありて、両軍をもて攻戦ふといへども、城主北条上総介綱成大剛の勇士にて、僅に三千の兵を以て昼夜ふせぎたゝかひ、明る十五年(1546年)四月に至りても猶落城の色もなかりしが、されど兵粮乏くして既飢にのぞめる由、北条氏康伝へ聞て、すなはち八千余騎を卒し、同月廿日の夜半砂窪の陣を襲ひ討しに、憲政の軍勢大に敗北せし由載たり、此砂窪はすなはち当村のことなり、今土人に問に陣せし所、及び合戦などのことすべて伝ることなし、是前に云る如く此辺もと広野なりしを、近き世に開きし村なれば古への事は伝へざるなるべし、