青木村(入間郡・河越領)
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青木村は河越城より乾(北西)に当り二里(約7.85㎞)を隔つ、江戸より行程十二里(約47.12㎞)、三芳野里勝呂郷と呼ぶ、東西七町(約763.6m)、南北十一町(約1.20㎞)、村の四境東は小沼・横沼の二村に及び、南西は高麗郡下広谷・戸宮の二村に隣り、西北は塚越村に接せり、民家五十九、水田少く陸田多し、天水場にて旱損あり、地頭は正保(1644年~1648年)の頃内藤六左衛門たること見ゆ、夫より後秋元但馬守領せしが、是も上りて松平大和守に賜りて今に至れり、検地は寛文三年(1663年)御代官細田小平次糺せりと云、
高札場
村の中程にあり、
小名
宿
此所は古鎌倉街道宿駅の名残なりと云伝ふ、此海道そのかみ小沼・塚越の方より村内を貫き、広谷村の方へ通ぜしとなり、
後青木
榎戸
馬乗塚
ねこ屋敷
中青木
前青木
下宿
花ノ木
ちんぐはんどう
堀ノ内
番匠谷戸
別所
八幡社
村の鎮守なり、
白髭明神社
是も此辺の鎮守なり、以上二社共に宝珠寺持、
宝珠寺
新義真言宗、勝呂大智寺末、愛宕山正護院と号す、古は法勝寺と唱へたりと云、法流開山慧弁寛政二年(1790年)九月廿一日寂す、此僧の時寺格を進めしとぞ、本尊不動を安ぜり、
愛宕社
諏訪稲荷合社
地蔵堂
十王堂
屋敷蹟
村の北小名別所にあり、爰は小沼・塚越の二村に挟れる所にて、往昔武士の居住せし跡とのみ伝へて姓名も知らず、構へし内西北の廻りに小土手今に残れり、其外皆畑となる、此畑の中より甲胄・刀・鎗の類の朽たる者を穿出せしことありと、想ふに当国七党の内丹の党に青木氏なる者あり、其人の居住せし所なるも知べからず、又土人の話に往古爰に薬師堂あり、其堂の東西に寺あり、東光寺・西光寺と云ふ、今小沼村の東光寺、塚越村の西光寺は即是なり、堂のありし時は此両寺より指揮せしが、何なる故にや其堂を破却し、本尊薬師を西光寺へ持行、又十二神をば東光寺へ持行て、今二寺にありと云、土人も其年代は詳ならず、