水子村(入間郡・河越領)
目次
水子村は郡の巽(南東)にあり、郷庄の唱へ前村に同じ、領は河越と見ゆれど今其唱へを用ひず、江戸より行程七里(約27.49km)、東は下南畑・宗岡の二村に錯り、南は柳瀬川を界ひ、新座郡舘村なり、西は当郡針ヶ谷村及び上下南畑村の飛地にて、北は鶴馬村に隣れり、東西十五町半(約1.69km)、南北十町(約1.09km)余、畑多く田少し、用水は柳瀬川及び村内処々の清水を引て漑げど、水路不伝にて旱損あり、民戸五十九、土人私に村内を三分し、上組・中組・下組と呼び、名主も三人ありて各一組を支配す、村内に古への奥州街道の名残あり、下南畑村より入、針ケ谷村に逹す、今は郡中所沢村辺への通路とせり、此街道に古への橋跡あり、内川の辺にて是奥州街道なりし頃架せしと云、爰も古への領主を伝へず、されど【北条役帳】に上田左近二十貫文入東水子とあり、御当代に至り正保(1644年〜1648年)の頃は御料私領入会にて御料は御代官近山与左衛門支配し、私領は三浦八兵衛・杉浦忠左衛門・芝山小兵衛が采地なりしよし物に見ゆ、此内三浦家に賜はりしは文禄年中(1592年〜1596年)にて、三浦次郎左衛門正次の時なりと其家譜に載たり、其後林長十郎・田代又左衛門も当村の内を知行せしが、元禄十一年(1698年)是等の采地皆上りて、一村惣て秋元但馬守に賜はりしより、今に子孫左衛門佐の領分なり、検地は慶安元年(1648年)・延宝三年(1675年)両度松平伊豆守、元禄十三年(1700年)秋元但馬守糺せりと云、
高札場
村の中程にあり、
小名
犬ノ墓
此所に九尺(約2.73m)四方許の塚あり
引又下
石川戸
北袋
城ノ下
高芝
つるまき
麹島
瀧下
別所
山下
打越
松原
並木
大原
舘下
長島
桑原町
栗山やつ
関口
桜井谷
山崎前
芝崎
いぬま
本郷橋
内山
永久保
向山
あかぬま
台下通
高田道
守田
石井前
土井
町屋前
猿塚
正繩
河越道
正あみ
大井戸
ばんば
原あての木
井戸窪
大鷹塚
大日屋敷
町屋山
北水子はけ
岡の坂
村の東よりにあり、
松木坂
小名山下にあり、
内川
南畑村より入、宗岡村に注ぐ、此川に添て古城跡あり、何人の居城なりしを詳ならず、今は其名のみにて境界も定かならずと云、
江川
村の南より東に流れて、内川に合す、川幅は二間(約3.64m)許なり、
柳瀬川
針ヶ谷村より流れ来る、川幅二間(約3.64m)より三間(約5.45m)に至る所あり、川に添て水除堤を築く、
沼
二ケ所共に南の方にあり、一は前沼池と云、広さ一段(約991.7m²)余、一はい沼池と呼ぶ、僅の沼なり、
林
七ヶ所、一は小名打越にあり、七段九畝(約7,835m²)余、一は西北の方にて、一町四段八畝(約14,679m²)余、其他は僅なる地なり、
土橋
柳瀬川に架す、長さ八間(約14.54m)余、
石橋
是も柳瀬川にあり、長さ八間(約14.54m)余、
塚
十ケ所にあり、供養塚・念仏塚・経塚・児塚・祭礼塚・御送塚・庚申塚等の名それぞれにあり、
氷川社 二宇
一は村内総ての鎮守にて福性寺持、一は上組の鎮守とす、村民持、
山王社
中組の鎮守なり、村民の持、
神明社 二宇
一は下組の鎮守にて真光寺持、一は村民持、
天神社
不動寺の持、
末社 花園明神社
諏訪社
下組の鎮守なり、宝性寺の持、
浅間社
般若院の持
八幡社
農民持、
弁財天社
福性寺の持、
愛宕社
村民八
稲荷社十五宇
不動寺・般若院・福性寺等の持なり、
大応寺
新義真言宗、京都醍剛報恩院末、水光山不動院と号す、草創の年歴は伝へざれど、当寺の過去帳に記せし世代の内法印賢憲は、天文十七年(1548年)示寂すとあれば、旧き起立なること知べし、中興開山を宥勝と云、貞享二年(1685年)六月二十九日寂せりと云、本尊不動を安ず、此寺の持に大応寺塚と云る古塚あり、古へは百八塚とも云て其数ありしが、今は一にて形ち長く小なる堤のごとし、由来は詳らかならず、
撞鐘
楼門の上に掛く、寛延四年(1751年)の銘文あり、事実に陟らざればのせず、
地蔵堂
稲荷社
不動寺
峯応山胎蔵院と云、当寺は村民孫三郎が先祖法印源宥と云し者の起立にて、元は修験なりしが、後新義真言宗に改、大応寺門徒となれり、源宥は寛文十三年(1673年)八月寂す、其法謚をもて院号となせり、本尊不動を置、境内に経塚あり、高一丈許、
福性寺
大応寺門徒、如意山と号す、本尊は如意輪観音を安置せり、開山を長円坊と云、寂年詳ならず、開基新井内蔵助は万治三年(1660年)三月卒せり、此人の事蹟は伝へざれど、村の農民周次なる者は其子孫なりと云、
正蓮寺
日蓮宗、安房国小湊誕生寺末、智性院と云、開山日性は永正二年(1505年)三月二日示寂す、本尊三宝を安ず、
上田周防守某墓
五輪の石塔にて、正面に上田周防守経□と刻し、傍に天正五年(1577年)四月十六日日道とあり、周防守は北条家の旗下にして、当郡下南畑村に居城せし人なり、外に寛正三年(1462年)と彫たる古碑一基あり、
三十番神堂
薬師堂
瀧本山と号す、大応寺門徒なり、本尊は不動を安、
薬師堂
薬師の像は、中古此所に地頭杉浦忠右衛門の納めしものなりと云、
古碑四基
応安(1368年〜1375年)・永和(1375年〜1379年)・応永(1394年〜1428年)・永享(1429年〜1441年)の年号あり、
宝性寺
前と同寺の門徒にて、医王山と云、本尊薬師なり、
真光寺
是も同寺の門徒、朝日山神主院と云、本尊如意輪観音か安置す、当寺は元村内神明吐の神主なりしが、何の頃にや梵刹となりしと云伝ふ、今も滅罪なし
地蔵院
愛宕山万福寺と号す、前と同寺の末なり、
善住庵
真言宗、律江戸湯嶋霊雲寺末にて、廿露山と号す、
般若院
本山修験、下南畑村十玉院の配下なり、本尊不動は長一尺(約30.3cm)許、運慶の作と云、
不動堂
村民の持、
阿弥陀堂
村民の持、
観音堂
大応寺の持、
地蔵堂廃地二ヶ所
一は南の方にあり、大応寺持、一は西の方にて農民の持、共に僅の除地のみ残りて廃せし年代は伝へず、
観音堂廃地
西の方にあり、是も除地のみ残れり、福性寺の持、