渋井村(入間郡・河越領)
渋井村は郡の巽(南東)にあり、三芳野郷古尾谷庄に属し、江戸への行程前村に同じ、東は大久保村に隣り、西は古市場村に境ひ、南は新河岸川を界ひとして福岡村に及び、北は久下戸村に至れり、東西凡十三町(約1.42km)、南北四町(約436m)許、民戸六十余、陸田多く水田は少し、伊佐沼の水を引て用水となせども水旱共に患あり、村内東南を貫きて一条の往来あり、村にかゝること十三町(約1.42km)許、往昔鎌倉より奥州への街道なりしに、今も其道は残りて大井町より中山道大宮宿への往来となれり、此村御入国の後松平伊豆守が領分たり、後御料所となりしが、僅に五六年を経て川越城附の村となり、今も代らず、慶安元年(1648年)松平伊豆守検地し、後明暦二年(1656年)同人古新田を糺せり、元禄七年(1694年)松平美濃守領分の時、堤の外萱野開きを改めり、享保三年(1718年)出洲を改め又見出しの所ありて、宝暦二年(1752年)糺ぜしことあり、其外慶安元年(1648年)・延宝三年(1675年)・元禄七年(1694年)の三度武蔵野開きの所を検せしことあり、此辺は亀久保・福岡両村のあたりにて、此村を隔つこと二十町(約2.18km)、若くは十二三町(約1.31km〜1.42km)に及べり、又枝郷と唱ふる新田あり、当所よりは東北の方荒川に添し飛地なり、萱沼など多くして其所を守れる民の家二軒あり、
高札場
村の東北にあり、
小名
海道端
鎌倉古街道の近きあたりをいへり、
駿河淵
のみ田
江川端
谷田
蛭沼
柳けつぼ
新河岸川
村の東南の境を流る、古市場村より入、大久保村に通ず、川幅十三四間(約23.64m〜25.45m)、
荒川
古谷本郷の方より当村の飛地枝郷と唱ふる所にかゝれり、夫より久下戸村の飛地、諏訪社の辺より又当村の 飛地へかゝり、又大久保村の地に至り、再び当村にかゝれり、川幅は七八十間(約127.27m〜145.45m)ばかりあり、
雷電社
慈眼寺の持、
末社天王社
稲荷社
鎌倉街道の傍にあり、陸道稲荷と云、街道の傍にあればかく唱るとぞ、村民村、
末社 神明社
蓮光寺
曹洞宗、下野国足利郡山川村長林寺の末、鷲嶽山と号す、開山麼庵総与永正十七年(1520年)十一月廿八日寂す、寺領七石の御朱印を賜りしは、東照宮此辺御放鷹の時、当寺の門前にて御茶を奉りし故なりと云、御鼻紙二つ折にて御直筆なりと云伝ふ、本尊薬師及二天十六羅漢の像を安ぜり、大鐘一口あり、明暦四年(1658年)鋳成の鐘なり、又弘安(1278年〜1288年)等の年号彫たる断碑数基境内にあり、
辨天社
神明稲荷合社
弥陀堂
慈眼寺
新義真言宗、足立郡与野町円乗院の門徒なる由いへど無住にて由緒を尋るに由なし、本尊不動を安ず、又新河岸川より出現せしとて地蔵一躯を置り、其出現せし所を今も地蔵淵と唱るなど土人語る、
春日社
稲荷社
疱瘡神社
観音堂
鎌倉古海道の傍によりてあり、元は是に観音橋と云ありし由、今はこれなし、
寮
傍に村民の墳墓あり、
旧家者伊三郎
黒須氏にて本名茶畑なり、家系を按るに先祖黒須長右衛門吉永は、華翁道栄居士と云、茶畑三郎右衛門吉秀の養子たる由、其実は北条長氏入道早雲が落胤なりと云、家伝に云長氏没るに臨み、子氏綱孫氏康を召て遺言して曰く、黒須長右衛門吉永は我等妾腹の子なり、懐胎の女を駿河国東郡茶畑三郎右衛門と云者へ嫁せしむ、爾時出生の子也と云々、此人を初代とし是より八代黒須長次兵衛に至るまでを記す、又別本の家系あり、是も黒須長右衛門吉永を初代として、二代黒須長右衛門吉亮、三代黒須長右衛門吉久の数代を記すのみ、外に道栄の画像一軸あり、上に載す、