砂新田(入間郡・河越領)
砂新田は川越城より南一里(約3.93km)を隔つ、こゝも三芳野の里にて、江戸よりは行程九里(約35.34km)に余り、山田庄に属せり、此村天文(1532年〜1555年)の頃より始て民居となり、其頃より円西と云る医師住し故円西新田と唱へ、彼が住し家のあたりは今も円西尻の小名存せり、後弘治元年(1555年)に本山修験常蓮坊と云るもの、岸村より来り住し故、再び村名を常蓮坊と改めり。此人は慶長六年(1601年)二月十一日死せり、子孫源八は当所の名主にて、彼常蓮坊の墳は今も源八が宅地の内に残れり、後慶安年中(1648年〜1652年)三上新右衛門と云るもの、砂村より来り当所の名主となりしかば、又砂新田と改めたる由当村明細帳に見えたり、されど郡内亀久保村名主正右衛門が由緒書に、寛永十六年(1639年)亀窪村高十六石三升の御割付被下候、尤村高内に常蓮坊新田円西新田共に高に入候、と見えたれば、地名の二度に改りしにはあらで、円西・常蓮坊二区の新田ともに亀久保村の内に属せしを、後に合せて今の如く一村となせしなるべし、村の四境東は砂村に隣り、南は藤馬村に続き、西は砂久保村に及び、北は岸村なり、東西五町(約545.45m)余、南北十五町(約1.64km)、村の中央を貫て川越街道を通ぜり、民戸五十九、皆畑の地なり、こゝも川越城附にて今は松平大和守の領分なり、当村の飛地少しく隣村藤馬にあり、検地は延宝三年(1675年)松平伊豆守糺せりと云、
高札場
村の南にあり、
小名
円西尻
西原
年とらず川
岸村の境を流る、
次兵衛塚
村の南川越街道の傍にあり、高さ二丈(約6.06m)許、村内本明院の開基吉田次兵衛は、松平伊豆守が物頭なり、此地己が給地なれば一寺を開基し、且己が蔵せる武具をば埋て此塚築きし由、子孫古田伝左衛門は今松平右京大夫(上野高崎藩主・松平輝規?)に仕へり云、
神明春日八幡合社
村の鎮守なり、大蔵院の持、
末社 稲荷社 天王社
稲荷社
村持、
本明院
天台宗、川越城内高松院末、吉田山恵明寺と号す、開山詳ならず、開基は前にいへる吉田治兵衛にて其人の木像を安ぜり、山号も其氏をもて命ぜり、今堂宇む荒廃に属し、住僧もなく本尊さへ本寺へ託し置りと云は、総てきくによしなし、
地蔵院
天台宗、仙波中院の門徒、十輸山円乗寺と称す、開山は円乗坊と伝るのみにて、示寂の年月を失へり、本尊地蔵は坐像にて長三尺許(約90.9cm)、春日の作と云、
大蔵院
修験にて、川越小久保村教宝院の配下なり、