入間郡総説

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総説

入間郡は国の中央にて江戸より西北の方七里(約27.49km)許にあり、【和名抄】国郡の部に入間を訓して伊留末と註す、郡名の起は郡中入間川村より始りしならん、其村今も入間郡に属し、村名も正保(1645年〜1648年)の頃までは入間といひしを、後世川の字を添しとなり、くはしくはかの村の条に弁せり、又土人の説に入間の字は仮借にて、その義は射魔なりといふ俗説あれどこゝには取らず、この郡名古書に著るゝものは【続日本紀】神護景雲二年(768年)七月壬午の条に、武蔵国入間郡人物部広成がことを載す、これ始なるべし、【姓氏録】にも入間宿禰の姓あり、是も当郡より起りし姓なるべし、又当郡古は多磨郡に通じて茫々たる原野なり、都て是を武蔵野と号し、後世分ちて入間野と記せしもあり、〈【東鑑】に於入間野有追鳥狩と記せし類なり、〉又三芳野の鳫〈【伊勢物語】に見ゆ、〉堀兼ノ井〈【枕草紙】及【千載集】俊成卿歌の類、〉の如き、郡中の地名縉紳家の歌枕にも入しゆへにや、郡名も自づから世にいちじるし、後世に至りて郡中の曠野多くは新墾して悉く田畝となり、人家も従て出来にければ古とは大にことなり、又中古より郡中を二分して入東・入西の唱あり、これ多磨郡を多東・多西と別ちしに同じ、【七党系図】に児玉惟行三代の孫入西三太夫資行と云人あり、その子を浅羽小太夫行業と云、浅羽は則当郡の郷名なれば、入西も此郡名にとりしこと論なし、是古くより入西と分ち唱ふるの証となすべきや、又寛治元年(1087年)鎌倉公方より下文の案に吾那入西郡と記せしこと、郡中今市村法恩寺所蔵年譜録と云記に見ゆ、世下りて天文(1532年〜1555年)・永禄(1558年〜1570年)の頃も専ら東西を以唱へしこと、【小田原役帳】及当寺の古証文などに歴々たり、〈東西の界限詳ならず、【小田原役帳】に拠て考れば、大抵入間川を界とせしがごとし、〉此郡古を以て考ふるに国の中央に当りて、多磨の府よりは若干の曠野をへだて、足立の府よりも荒川及水涯の閑地ありて、往来の道をさゝへたればにや、別に郡家を置れて進退の指揮ありしと思はる、後世武家の世となりても川越に舘あり、是今の高麗郡上戸村の辺なり、其後因循して鎌倉公方の比より、かの地に城郭を構へて近郷を治めしめしが、爰も便あしければとて、今の地に城壁をうつしけり、爾りしより後もあまたの年をへて御打入の後は屡々其城へ大名を置る、故に城下市街の繁華なる自ら郡中の便宜をなせり、郡の地域は其形譬へば瓢箪の如く、中間狭まりてその辺を入間川流るゝをもて其地形二郡の如し、古入西郡入東郡と分ち唱へしも其理なしとせず、彼括りたる如き所より西へさし出たる一区は、高麗・秩父・比企三郡の際にはさまりて、東西の徑り凡四里半(約17.67km)、南北の濶さそのふくれたる処二里(約7.85km)に余り、狭き所は一里(約3.93km)に過ず、東の一区は北の方比企・足立の二郡に対し、東は新座郡に接し、南は多磨郡に包まれ、西は高麗郡にて、大抵入間川を以界とせり、南北の長五里(約19.64km)、東西の幅三里半(約13.75km)なり、二区を合し斜に延亘したる長は殆ど十里(約39.27km)に及ぶべし、土性は大抵野土にして陸田多し、水田は西北の方川に添て平坦の地にあり、すべて此辺の地勢を考ふるに東は卑く、西の方へ漸くに高くして、秩父郡の山足この郡中に始るに似たり、郡内に二条の往還あり、其一は川越城下より江戸への道なり、城下より東の方大井町へかゝりて、三里半(約13.75km)を経て新座郡大和田町へ逹す、其一は江戸より秩父郡及上野国への往還なり、多磨郡南秋津村より入て高麗郡高萩村へ逹す、其間三里半(約13.75km)許、高麗郡の中にて二条に別れ、秩父及び上州に逹す、其上州道は又郡中葛貫村へ入、二里(約7.85km)許にして比企郡に入る、闔郡の形状中間に川越城あり、東に柳瀬川流れ、南に狭山の峯つゞき、西はもとより秩父の方へ連れる山足にて、北は越辺・入間・荒川の三流延回して界をなす、されど中間高麗郡の地押入たれば其詳なることは記しがたし、猶図と照し見るべし、然るに以上の経界は後世大に変革せしと覚えて、【和名抄】郷名の中広瀬などは今其遺名あれど、本郡に入ずして高麗郡に属す、又郡中法恩寺年譜録に載る大豆土村今比企郡に属するの類にて知べし、人物風俗等に至りてはさせる殊異なしといへども、西の方山に添ひたる地は尤鄙野の風あり、