小手差原古戦場(入間郡)
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小手差原古戦場
小手差原は武蔵野の内なり、郡中北野村に今小手差明神の社あり、それより近き所誓詞が橋の辺より乾(北西)の方に向ひ、入間川村のあたりまで凡二里(約7.85km)程の間を指て、かの旧跡なりといへり、其接地の陸田は古すべて茫々たる曠野にて、府中のあたりまでつゞきたれば、其界域今を以さだかに弁すべからず、抑小手差と云地名は、こゝのみにも限らで、他国にもあり【東鑑】治承五年(1181年)志田先生義広が、小山朝政が舘に趣きて戦ひし条に、小手差原小堤等の地名見えたり、〈今按に下総国葛飾郡古河城の辺に、小手差小堤の二村あり、【東鑑】に云所これなるべし、下野国小山町より二三里(約7.85km〜11.78km)隔りし所也、〉されば小手差原と云へる唱古きことはしらるれど、その起る故は考ふべからず、【太平記】第十巻小手差原合戦の条あり、又同書第三十一巻に武蔵野合戦の条をのす、これも戦場は小手差のよしをいへり、初度の合戦は元弘三年(1333年)鎌倉方桜田治部大輔と新田義貞とたゝかひ、義貞打勝てり、後の合戦は夫より二十年の後、文和元年(1352年)南北朝御矛盾の比、将軍尊氏と新田の一族との合戦にて、此度は尊氏敗走せり、此二度の戦ひ世に聞えしことなれば、人々能此小手差原の名を知れり、其合戦の大意をいはゞ始の一戦は新田小太郎義貞前朝の綸旨を頂戴し、本国上野国笠掛野にて旗を挙げ、是元弘三年(1333年)五月八日なり、同九日武蔵国へ打越す、〈今土地につきて尋ぬるに、そのかみ義貞上州笠掛野より、当国児玉郡本庄宿の辺へ出、夫より比企郡将軍沢須賀谷へかゝり、本郡若林村高麗郡女影より広瀬を経て、本郡入間川村へ出しとなり、〉是に於て大勢加はり、三日が中に二十万騎となり、四方八百里(約3,141.8km)に余る武蔵野に入馬身を峙る程打囲む、鎌倉より急ぎ桜田治部大輔を討手の大将として、長崎以下上道より〈上道と云は関戸より分倍へ掛り、久米川村の方へ出る往還なるべし、〉入間河へ向らる、是は水沢を前にして敵の渡らん所を打んとなり、路次に両日逗留有て、同十一日の辰の刻(午前7時〜9時)に武蔵国小手差原に打莅む、是に於て源氏入間河を渡て相戦事、一日が内に三十余度に及び、日暮ければ源氏三里(約11.78km)退て入間河に陣を取ば、今入間川村徳林寺境内に、義貞陣所の跡あり、〉平家も三里(約11.78km)引退て久米川に陣を取る、両陣相去こと其間纔三十余町(約3.27km以上)なり、夜明ければ源氏は平家に前をせられしと、匹馬の足を進て久米川の陣へ押寄と云々、按に此時源氏打勝分培より鎌倉へ攻入しことは、已に多磨郡久米川村府中宿等の条に出せり、此段の記を新井君美が評して云、【太平記】第十巻は義貞朝臣の自記と云伝へて、即今の地理にも符合し殊勝の事なり、実録なるべしと、今其地に就て【太平記】の本文と照見るに、入間川へ向ひ水沢を前にしてと云は、則入間川の河原をいへるならん、かの戦場は小手差原なれば、こゝより両陣坂東道三里(約1.96km)づゝ退けば三十六町(約3.93km)ほどにて、下の文両陣相去ること其間三十余町(約3.27km以上)と云にはよくあへど、今の地理にはかなはず、義貞の陣跡徳林寺より久米川の辺までの里数を計るに、京道1三里(約11.78km)ほどもへだゝれり、坂東道2なれば十八里(約11.78km)許にあたる、因て思ふにもし当時多磨郡久米川村の地、今の久米村の地までもかゝりて、平家の陣所大に入間川の方へよりたりしもしるべからず、四方八百里と云が如きはもとより文勢なれば、とかく論ずるに及ばず、又同書第三十一巻武蔵野合戦の章は地理を記せし所今の地とあはず、新井君美も既に此章後人の記勿論歟記事の次第も、地理も不審の事のみ也といへり、今園太暦神明鏡等すべての記録と点検するに、実に矛盾すること多し、先【太平記】の大意は当時新田の一族武蔵・上野・信濃・越後の間、国々に潜みしが、三浦葦名が内応に機を得て、西上野に打て出づ、時に文和元年(1352年)閨二月八日〈園太暦には十五日とあり、〉なり、同十六日の早旦に尊氏鎌倉を出で武蔵に下り、其勢三千余、久米川に逗留す、然るに三浦党の陰謀露顕しけるを、新田の人々はこれをしらず、時分を考へて閏二月二十日辰刻(午前7時〜9時)、武蔵野小手差原に打臨む、扨一戦に臨みて鎌倉方花一揆、饗場命鶴丸が新田方児玉党に破られて、尊氏の陣へ崩懸りけるを、武蔵守義宗旗より先に進て、自余の敵の南北へ分れて引をば目にも懸ず、天下の為には朝敵なり、我為には父の敵也と、二引両の旗に付て、小手差原より石浜まで、坂東道四十六里(約30.13km)を片時が間に追付たる、尊氏石浜を渡、河中にて敵味方勝負の間に、急を遁れて向の岸へ上る、向の岸高くして屏風を立たる如くなるに、敵数万此を先途と支たり、日已に酉の下りに成て、河の淵瀬も見えざれば、義宗本陣へ引返す、然るに左兵衛佐義興・左衛門佐義治は、さきに白旗一揆が北に分れて北るをば、尊氏ならんと追懸て、五十町(約5.45km)迄行程に敵にげ延て志を失ふほどに、仁木越後守義長が新手に懸なやまされ、纔に二百騎に打なされ、義宗にはわかれぬ、とかく運の極めなれば、鎌倉へ切込て左馬頭基氏と雌雄を決んと、夜の間に分倍より関戸の方に赴く、〈此所にて三浦葦名等に行逢て鎌倉へ攻入しなり、〉されば義宗もまた義興・義治には逢はず、纔の手勢にて陣をはるべからざれば、夜に紛れて笛吹が嵩へ落けるとなり、此文につきて地理の説々あれど下に弁せり、【園太暦】正平七年(1352年)三月朔日の記に云、去十九日尊氏卿没落大略不知行方於武蔵国前守護代薬師寺一党、上杉一類等合戦、御方乗勝畢ぬ、閨二月十九日義宗が注進状の文をのす、其略云、今月十五日於上州揚義兵、同十六日対治国中凶徒、同日打越武州、打随当国凶徒、十八日攻入鎌倉候之処、尊氏已下凶徒已没落、楯籠武州狩野河候之間、今日十九日発向彼方仕候、決雌雄候者重可注進候云々、此状十九日狩野河に発向の前に、鎌倉より出せしとみゆれば、十九日の事実はのせざるなるべし、又同書に此年三月五日覚誉法印の状を載す、其略に去月十八日関東の凶徒等、没落武州狩野川之城、官軍乗勝攻懸る、大王〈按宗良親王〉以下上州・信州之堺竿吹峠迄已に出御歟、新田者共註進、昨日酉刻(午後5時〜7時)到来、先度自大王被仰下之趣悉以符合す、返々目出畏入候、新田一族以下諸将、十五日立上州対治国中與党残党、打越武州及関東、発向之間尊氏以下不堪防禁逃落候、新田武蔵守義宗令警固、関東奉行大王義興義治以下諸将立帰、武州可平敵陣云々、此暦の前後の文を通じて考るに、十五日に新田の一族上州にて義兵を揚げ、十六日に宗良親王を奉じて武州へ打越て、前守護代薬師寺・上杉等を打随、十八日に鎌倉へ攻入しに、尊氏等早く武州へ没落せしにより義宗は鎌倉を警固し、親王・義興・義治以下は同十九日武州へ立帰て、尊氏を討滅さんとせられしなり、然して廿日以下の事実を闕く、【太平記】には此等の事実は更に載せずして、直に廿日の一戦を記す、故に事実更に合はず、新井君美が考に、暦と記との優劣を論せば、暦は当時義宗覚誉等が手記に出て、記は後人伝聞の説なれば、暦の方理に近しと、されば此武蔵野の合戦は新田の族、鎌倉より尊氏の在所を逐ひ、武相の境鶴間原の辺に至りしを、尊氏出迎へて戦ひしならん、こゝより石浜へ至らんには、玉川の岸まで坂東道四十六里(約30.13km)ほどにて、しかも封岸屏風を立たる如き所もあるべし、小手差原の著名によりて、記者鶴間の名をしらず、戦場の原野なりと云を以、推あてに小手差とは記せしならんと云へり、今按に君美が考もまた穏ならぬことあり、【李花集】【新葉集】に武蔵野へ打越て、小手差原と云所におり居て手分などし侍りし時、いさみあるべきよし、つはものにめし仰ありしついでに思つゞけはべり、中務卿宗良親王 君の為世の為何か惜からん捨てゝかひある命なりせば、と詠ぜられしは、此時のことなりと云、又神明鏡によれば、観応二年(1351年)〈今按今年閨月なし、三年の誤にて、則文和元年(1352年)なるべし、〉閨二月廿日新田兵衛佐・同武蔵守鎌倉へ責上、将軍與新田於武蔵国府原合戦、尊氏打勝、同廿八日信州幸坂宮、并新田武州高麗原合戦亦尊氏打勝云々、此説太平記に記す所に近し、小手差より国府まで一面の原野なれば、国府原と云しはさもあるべし、又新曾彦太郎光久が申状にも、於鎌倉者閨二月十七日武州御発向之間、御供人見原入間河原戦之御供仕候云々、これらによれば君美が考も未だ尽さず、とかく小手差原にて合戦ありしに治定すべし、今試に暦と記とあはざる所を、諸記録に証をとり、考定して説をなさんに、その大意新田の一族、久しく東国にひそみ、漸く時を得て蜂起し、上野・武蔵の敵を閨二月十六日までに打従へ、同十八日に義宗等鎌倉へ打入しに、尊氏早く逃れて狩野川城〈今の金川なるべし、〉にあるよしを聞、則鎌倉中の警固を沙汰し、同十九日に南帝へ注進の状を書て使を出し、既に狩野川へ向はんとせしとき、葦名・三浦等の内応を得しにより、尊氏を討取べき計策、彼城に寄ては難かるべしと、態と若干の道程を退きて入間川まで返り、尊氏をひき出さんとはからひしかば、果して尊氏打て出けると、たまたま三浦党の陰謀露顕し、手勢を率て引去しに、義宗等こをしらずして、廿日の日小手差原にて戦へり、尊氏打負て川岸まで逃来り、こゝにて近習の輩そこばく戦死し、力なくして尊氏は川を渡りしが、狩野川の方には三浦の輩ひかへたれば、落行ことかなはず、遠く道をまげて石浜まで落のび、石浜入道が舘におちつきしならん、〈石浜入道がこと【異本太平記】に見ゆ、〉此後七日も石浜に逗留ありしなれば、石浜へ走りしは諭なかるべし、さて尊氏が川をわたりて遁れしと云は、いづれの川なりや、新井君美は戦場もし小手差原ならば白子川ならんと云へり、此地も大抵戦場より坂東道四十六七里(約30.13km〜30.78km)にして、対岸赤塚の台へ上る所には屏風を立し如き所あればなるべし、又土人の考に、多磨郡熊川村の内多磨川の岸に牛浜と云所あり、此所対岸二宮村の地形高くして、げにも断岸屏風を立たる如き所なり、此地も戦場よりの道程坂東道四十六里(約30.13km)ほどにあたれり、牛浜を誤て石浜と記せしならんと云へり、これも石浜と云名に泥みし考のごとし、今按に【太平記】の文によれば、とかく此二川の外に出ざるべけれども、適従すべきことをしらず、古き書写の【太平記】にも隅田川など書なせしは、石浜の辺りにて、殊に名高き川なれば、里数をもたゞさで筆に任せて書しものと見ゆ、猶熊川白子の各条に弁せり、されば【太平記】小手差原より石浜まで、坂東道四十六里(約30.13km)がほどゝかきしは、全く誤にて、四十六里は白子などの川辺までの里程なるべし、川を渉りて猶若干の道を落延て石浜へ至りしならん、是を要するに【太平記】に載る所、【園太暦】とは大に異同あれば、此段は全く後人の手に出し所少なからずと覚ゆ、