本町

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本町は西大手前の正面にて、木戸より東西への大路を云、両側に商店軒をつらねたり、御入国の前迄は本宿と呼しが、其後本町と改め唱へしと云、家数六十余、南は江戸町・多賀町等に続き、北は裏宿屋舖町・喜多町等にて、西は南町なり、古は江戸町も当所の内なりと云、

高札場

高沢町の堺四辻にあり、此所より卯(東)の方は城にて、巽(南東)は松郷の家並に続き、南は脇田村の家続にて、蓮馨寺境内に至る、坤(南西)の方は妙養寺門前、東明寺村養寿院前まで家並つゞきなり、西の方は小久保村の地と犬牙して、其間は赤間川を境とす、戌(西北西)より寅(東北東)までは小久保村・町郷分・寺井三ヶ所東明寺村等犬牙し、城下の士町をへだてゝ家居をなす、

小名

熊野堂

北町へよりし所なり、今南町に住する修験、識法院及び下に出せる弥左衛門等が祖先の住せし所といへり、

稲荷社

大屋敷稲荷と号す、名主弥左衛門が持、

旧家者弥左衛門

氏を榎本と号す、先祖は紀伊国熊野の人なり、天文年中(1532年〜1555年頃)子孫某なるもの当郡の内に来り住せり、其人気象豪邁にして事に堪たりと云、もとこれ修験にして本国熊野の神を奉じければ、人これを熊野堂と号して、諱字院号等を呼ばず、大道寺在城の頃は熊野堂も其麾下に属して、戦陣の事にも預りしとなり、今も南町の修験識法院及び此弥左衛門皆子孫なりと云、弥左衛門が先祖は熊野堂が孫、弥惣左衛門が時より浪落の身となりて、こゝに土着せしと云、弥左衛門が先祖の寛永(1624年〜1645年)の頃記せし万覚書と題せる一冊あり、己が家のことをほゞしるせり、

褒善次兵衛

親に仕へて孝なるをもて、寛政二年(1790年)領主より褒賞せり、時に年五十歳なりしといへり、