喜多町

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喜多町は札の辻の北にあるを以て名づけしと云、東は裏宿につゞき、西は四軒屋坂上町に隣り、南は本町・南町・高沢町にさかひ、北は下町に及べり、古はこの所も下町の内なりしが、東明寺の境内しゝまりし後別に此町は出来しとぞ、今も東側の内に門屋と云小名あるは、東明寺惣門のあとなりと云、

小名

代官町

北の方下町の堺なり、御入国の頃より慶安(1648年〜1652年)の頃まで、御代官大河内金兵衛が住せし所なるにより此名ありと云、昔川越の夜軍に東明寺にて戦ひしと云は此所なり、今も土を穿てば武器の朽たるもの、及び白骨などを得ることありと云、

鍋屋屋敷

これも代官町の東北につらなりたる所なり、今広小路と云辺なり、古この所に鍋師矢沢某と云もの住せし故にこの名あり、

広済寺

曹洞宗、多磨郡根ヶ布村天寧寺末、青鷹山慈願院と号す、寺伝によるに昔大道寺駿河守政繁当所在城の頃、 世々の菩提寺として起立し、僧広庵芸長を開山とす、時に天文十七年(1548年)八月廿日なり、此後芸長久しく住して天正元年(1573年)六月六日寂す、政繁は同十八年(1590年)七月十九日歿せり、其後上州の人本田右近親氏と云もの中興す、元和四年(1618年)十一月十四日親氏歿して証真院其阿経範と謚す、其子孫は中寺山林に本田弥兵衛とて今にあり、本尊は釈迦の像を安ぜり、

鐘楼

明和元年(1764年)の銘を彫れり、

金毘羅社

稲荷社

白山三峰稲荷合社

弁天社

嚏婆塔

石にて作る長三尺(約90.9cm)ばかり、今は形もやつれて見わかず程なり、里人痰痎を患ふるもの此塔に祈願して験を得るもの多しと云、

褒善平六

親に孝あり、寛政二年(1790年)城主より褒賞を加ふ、時に平六五十四歳なり、