志多町

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志多町は喜多町の北につゞきて、地ひくきを以て下町の名ありと云、東明寺の境内に限り、西は広済寺長屋〈城下の士の宅地なり、〉に隣り、南は喜多町にて、北は赤間川を界とし、対岸は小久保村なり、家数四十七、赤間川の際に惣門あり、

志多町橋

惣門の外赤間川に架す、或は東明寺橋とも号す、長八間(約14.55m)余、幅二間(約3.64m)、この橋をわたりて行けば、松山及中仙道熊谷の宿への通路なり、

東明寺

稲荷山称名院と号す、時宗にて相模国藤沢清浄光寺の末寺なり、開山遊行一遍上人正応二年(1289年)八月廿三日示寂す、本尊虚空蔵立像にて慈覚大師の作なりと云、霊験あらたなるを以、深く秘してたやすく拝することをゆるさずと云、

鐘楼

鐘に寛政六年(1794年)の銘文を彫る、

稲荷諏訪天満宮三社

塚上にあり、この塚は天文十五年(1546年)当所夜軍の記に、難波田弾正が東明寺口の古井に陥て死せしと見えたるは、此所にて廃井を埋みてその上へきづきし塚なりと云、三社の内諏訪明神は、難波田が霊を祀りしなりと云、この塚のわたり七間(約12.73m)ばかりもあるべし、又云宝暦(1751年〜1764年)の頃まで境内の南の方に塚ありしを、住僧隠宅をつくるとてその塚をこぼちしに、髑髏四五百ばかり出たりと云、この諏訪の社もその塚の上にたてしなりとぞ、よりておもふに難波田が落いりし井戸も、今の所にてはあらざるか、

長昌寺

霊鷲山と号す、曹洞宗なり、当寺は今の城主世々の祈願所にて、城主に従ひてこの地にうつりしと云、境内の地は瀬戸屋と云ものゝ幽棲の所にて、其迹を庵宝とし枯木庵と号し、普宥と云禅僧すめり、長昌寺移り来りしなり、本尊聖観音の立像なり、