高沢町

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高沢町は本町の西のつゞきにて、高札場より西の直路なり、西は小久保村の内石原町にとなり、赤間川を堺とす、南は南町および養寿院門前に接し、北は喜多町に隣れり、此所は古竹沢九郎と云人起立せし町なるゆへ、竹沢町といひしを、又かさはととなふるより、文字も今のごとく書りと云、この九郎は竹沢右京亮が子孫などにや、

稲荷社

六塚稲荷又六丘稲荷とも呼ぶ、相伝ふ昔太田道真この地に住せし時、荒野を開かんとして、古丘六つを穿崩して、そのあとへ稲荷六社をたてしが、其後五社をば廃してこの一社に合祀すと、又云さにはあらず、道真当所在城の頃、建立せし六所の稲荷と云は、今も猶存せり、それは同心町・本町・志義町・城内下川又左衛門が屋敷の内・うき島以上の五社と当社とをあはせて六社なり、 ゆへに六塚の名ありといへり、

見立寺

寿昌山了心院と号す、浄土宗、当所蓮馨寺の末寺なり、開山感誉後に遊行して終る所をしらず、故に其首途せ し天正二年(1574年)五月十八日を以て、暫らく命日とす、感誉俗姓は北条氏にて氏康の子なり、城主大道寺駿河守政繁が母、法謚実泡院柔誉光沢蓮馨とて、永禄十年(1567年)八月十二日卒す、この人蓮馨寺起立の時、仮堂をかの境内に建置しが、蓮馨財をすてゝ永続せしめ其菩提を祈りしとぞ、其頃は寺号も建立寺とかきて、かの寺の塔頭なれども、火災をさけて後にこの所へうつりしなり、今も蓮馨寺の境内に六段畑と云所あり、是当寺の旧跡なりと云、本尊三尊の弥陀を安ず、又内仏に弥陀の像あり、長一尺四寸(約42.42cm)、聖徳太子の作と云、

秋葉社

大蓮寺

是も同宗にて同末なり、来迎山紫雲院と号す、開山は本山と同人にて、開基は大道寺政繁が母蓮馨尼なり、本尊は弥陀三尊坐像にて、長三尺(約90.9cm)ばかり、首のみは恵心の作なりと云、

寺宝

  • 三尊弥陀画像一軸 伝教大師筆
  • 弥陀画像一軸 慈覚大師筆
  • 二十五菩薩画像一軸 恵心僧都筆

鐘楼

元禄七年(1694年)の銘あり

八幡社

三峰社

太子堂

秋葉金毘羅社

子安観音地蔵堂

古碑二基

弘長元年(1261年)・暦応三年(1340年)の供養塔なり、