妙養寺門前町

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妙養寺門前町は志義町の西のゆきあたりにて、門前の通及び六軒町の横町を西へをれて、野田村の内境町に隣る、されどもとより片側の町なり、

妙養寺

蓮信山と号す、日蓮宗、甲斐国身延久遠寺末、相伝ふ昔日蓮諸国行脚の時、仙波尊海僧正と、曾て叡峯同学の好あるにより、其宝を尋んとして此地に投宿せしとき、旅宿の夫婦の者深く帰依しけるにより、日蓮法名を授けて、夫をば蓮信といひ、婦をば妙養と云、後終に宅を捨て寺とし、勤業怠らず、終焉を遂けるとぞ、其後荒廃せしを遙の後天文七年(1538年)僧日在再興して、法華の道場となし、彼夫婦の者の法名を以山号寺号としけるとなり、其かみは松郷の内久保町の北側に有て其地に住める、惣右衛門と云は則開基蓮信妙養が子孫なりと云伝へり、其後当寺の此地へ移りし年代は詳ならず、或は云元亀元年(1570年)のことなりと、されどたしかなる証蹟あらざれば、いかゞはあらん、抑当寺の事は【高祖年譜考異】にも見えたり、云、川越有大士霊蹟、有精舎号蓮信山妙養寺、此其所乎、寺主曰、相伝是大士遊学之地、年月不可知也と、其旧蹟なること知べし、中興開山日山天正三年(1575年)十二月三日寂す、本尊三宝を安す、

鐘楼

昔の鐘は破壊して寛保元年(1741年)に改め造りしかど、旧銘を彫る、其文に、

妙養寺鐘銘并序

武州川越蓮信山妙養寺、相伝高祖遊学之処、居士蓮信、其妻妙養、篤奉二三宝一、遂帰二我祖一、捨レ宅為レ寺、故以名焉、而今住持沙門日怡、合二衆檀力一、新鋳二大鐘一、不日成、使三余為二之銘一、余雖二老旦懶一、曾与二怡公一同学也、不レ可レ得レ辭、応二其需一云爾、

銘文略之

元禄十三(1700年)庚辰霜月吉日

番神堂

妙見堂

七面堂

稲荷社

和楽社

享保三年(1718年)七月祀ると云、祭神詳ならず、今は社破壊して未だ再造せず、

褒善善助

天性質実にして、よく父母の命を守り、闇室をもあざむかず、孝養をこたることなかりしかば、その誠心の聞えありける故にや、天明二年(1782年)領主より賞して、生涯月俸一口を与へしといふ、時に年三十九歳なり、