鍛冶町

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鍛冶町は南町の南の続きにて、志義町の中程へ横に通ぜり、天文(1532年〜1555年)・弘治(1555年〜1558年)の頃鍛工平井其と云もの相摸国より当所へ来りて住す、その門人鴫惣右衛門・同内匠・加藤甚兵衛などと云もの、これかれ十余人こゝに住して其業を専とせし故に、鍛冶町の名あり、其頃より鍛冶の運上を出せしによりて、今も諸役免許なり、

金山社

祭神は金山彦命とも、天目一箇命なりとも云、鍛工の守護神なり、例祭二月十五日、

法善寺

一向宗、京東本願寺の末なり、自然山宝林院と号す、或は華界院とも云、縁起を閲るに当寺は昔真言宗にて丹州氷上にありて門徒十五ヶ所の本山なりしに、寛正元年(1460年)時の住僧、法印良応こゝに移住して当寺を起立し、良祐・良全・祐智・祐恵・良海に至るまで、六代相続して古義の宗風を尊ぶ然るに良海は上州の人にて、先住祐恵の法嗣にて、碩学の沙門なり、祐恵京師にあそぶの日良海も随従す、時にたまたま蓮如上人城明山科郷野村の坊に於て親鸞相伝ふ宗義弘通の時なり、恵・海二僧共に山科へまふでゝ遙に教化をきゝ、帰依の志発りしかど、改宗せんもさすがにいかゞなれば、文亀元年(1460年)帰りて其後五年を経、永正三年(1506年)に至り、祐恵歳六十三住職を良海に譲り、其身は京に赴きて釈実如に謁し、浄土新宗の流を酌み、専修専念の行者となる、同(永正)八年(1511年)正月廿八日洛の寓宿にて往生を遂ぐ、こゝに於て良海も又都へ上り実如に謁す、師なりし祐恵が有縁の善知識なればとて、請て法名を書せしめ、遺骨と共に負て寺へ帰りて供養す、これより常に淨土の法門を兼学すといへども、旧宗の教と別なるにより、三密同体の床に坐して修学するに、若干の星霜を送る、こゝに天文六年(1537年)川越合戦の時、城下の寺院修羅の巷となれり、この間に当りて兼学の功ならざることをはかり、蓮如の所縁をたのみ、江戸麻布善福寺に入り、院主堯海に謁して縁をかたり、終に彼門に帰せり、然るに先師祐恵は退隠の後、淨教に帰し、良海は現住善福寺の弟子、源能と云僧を後住として寺務を譲れり、この源能俗姓は源氏甲斐国武田氏の一族、一条右衛門太夫信龍が叔父なり、此後しばらく善福寺の末寺となりしが、第四世の時本山の末に属せりと云、本尊弥陀木の立像にて長二尺八寸(約84.85cm)、足の裏面に永承四年(1049年)己丑と記す、定朝の作なりと云伝ふ、又堂の軒に鐘をかく、刻して云、為武田家追福者也、武州河肥自然山法善寺、維時天文十九年(1550年)庚戌初冬、釈源能等の数字あり、

寺宝

親鸞像一軸

本願寺宣如が裏書あり、

顕如像一軸

本願寺教如の判あり、

後二条院宸筆一軸

円満院御門跡筆一軸 この余、仏像名号のかけ物多し、

太子堂

太子十六歳にならせたまひし時、自ら彫刻したまひし木像を安ず、長さ四寸二分(約12.73cm)にて立像なり、

褒善与兵衛 附小者兵右衛門

中嶋氏なり、与兵衛性質篤実にして母に事へて孝なり、又名主役を勤めて謹厚なるを以て、文化元年(1804年)四月領主より褒賞して、永く苗字を名乗ることを許せり、渠は古き世の事を好みて、当郷の古蹤を搜り、一書を著し三芳野名所図絵と名付け、今も家に蔵せり、又この家の下男に兵右衛門と云者あり、曾て与兵衛病にそみて、治大病に至らんとせしとき、讃州象頭山へ詣でゝ主人の病平癒のことを立願し、丹誠をこらしけり、其誠忠郷里に感歎せられ、おのづから領主へも聞えけるによりて、与兵衛平生人を撫するの篤実、兵右衛門が主人へ事ふるの誠忠、両ながらありがたしとて、与兵衛と同時に賞して若干を与へり、