上松江町

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上松江町は城の未(南南西)の方にて、江戸より城下町へ入る所なり、北の方は江戸町に続き、東は南北の久保町に接し、西は志義町及び松郷に堺ひ、南も又松郷の地なり、相伝ふ往古此辺より仙波の辺へかけて大なる沼あり、この沼に生る鱸魚其味殊に美にして、かの唐土松江の巨口細鱗にも劣らずとて、松江と名づけしが、唱は字の訓を用ふること語路の便なるにより、かく号すといひ伝ふれども、いかゞはあらん、古よりこの地月ごとに四日・廿日の市立しが、近き頃は五月四日・十二月廿四日のふたゝびのみ立り、

褒善新六

此町に酢を売者に市郎兵衛と云ものあり、新六は彼が下男なり、父を弥兵衛とて埼玉郡樋遺川村に住せり、初め新六十四歳の頃より、主人市郎兵衛がもとに年を期して仕へしが、其頃は末だ市郎兵衛が父某産業を専つとめし頃なりしが、ついで某歿して程むなきに又火災にあひ、生産いとやつやつしく、酢を造ることさへいとなみかねしを、新六はこの時に当りて専ら酢を造ることをつかさどり、すこしも怠る色なし、これ俗にとうしと云ものなり、然るにこの辺酢を売る家も多きに、とうしの寡きを患ひ、争ひて新六を招き、多く俸金を与へんと云しを、曾て志を変ぜず、いとまあれば主人をたすけて田畠を耕す、もとより馴ざる業なれば、労苦なかなかにたゆべからざれども、少しくも厭はず、こゝに市郎兵衛が妻歿して子五人ありしかば、いよいよ産業に苦めり、然るに新六その幼穉の子を介抱して、はごくむこといとまめやかなり、其後長子市郎右衛門が妻も亦うせて、これも三人の子あり、幼児に至りては乳を呑ほどの児なりければ新六近隣を乞ひ廻りてやうやくほすることを得たり、かくまで主家を維持しけれども、己が心にいさゝかも驕慢の色なく、主従の礼義もかゝざりし、或は夫役にさゝれて其事に赴けば、勤に服すること甚だ謹慎なり、見聞する人感賞し、或は彼が貞実に服し、抱へて下男とせんといひ、或は養ひて子とせんといひしものあれど、皆辞してつかず、故郷よりも帰を促しけれど、半途にして已めんは本意なしとて、妻をも迎へずして主家の事にかゝつらひ、前後四十八年が間少しも怠らざること豈美事ならずや、領主大和守聞て是を善し、銭若干を与へて褒賞せり、時に寛政元年(1789年)七月新六が六十二歳に及びし時なり、其後四年を経て歿せり、