久米村 附平塚新田(入間郡・山口領)
久米村は河越城より坤(南西)に当りて四里(約15.71km)を隔つ、江戸よりは行程八里(約31.42km)なり、久米郷柳瀬庄に属す、相伝ふ昔此所に久米其と云もの住し、故に村名起りしと云り、東は北秋津及び多磨郡久米川村に隣り、南も同郡にて野口・廻り田の二村なり、西は当郡荒幡村に堺ひ、北は岩崎・所沢・上新井の村々に接す、東西へ二十町(約2.18km)、南北十二町(約1.31km)余、開闢の年代はしらざれど古き村なるにや、是下を流るゝ川を久米川と呼び、又対岸の村を久米村と号す、陸田多く水田少し、家数百十八、村内に二条の路あり、其一は江戸より青梅への路にして、久米川村より入て岩崎・上新井両村の間に達す、一は所沢と北秋津との間にあり、是は江戸より所沢へ出る路なり、又古の鎌倉道と云ものあり、所沢・上新井二村の間より村内へかゝり、十二町(約1.31km)余にして野口村へ達す、道幅今は纔に三四尺(約90.9cm〜121.2cm)なり、按に是【太平記】小手指原合戦の条に、将軍方十万余騎を五手に別て中道より寄しと云は、この道なるべし、其下文に久米川に一日逼留せしと云を以て察すべし、又【同書】元弘乱(1331年〜1333年)の条にも上道より入間川へ向ひしことを載す、是中道に対せし上なることは勿論なれど、それと覚しきは鎌倉古道の西に当り、箱根ヶ崎の方より木蓮寺村の前へ続ける道なるべし、是をも土人古道なりと云伝ふ、又東の方にも膝折辺などには鎌倉古道あれば、【太平記】に中道と云しもさることなり、御打入の後は高井三郎兵衛が知行せしが後上地となり、正保(1644年〜1648年)の頃に至りては菅沼十兵衛・山田権右衛門・三枝土佐守・中根大隅守等知行せり、今は是内三人の子孫大隅守が支流伝七郎と菅沼善次郎・山田市郎右衛門等相続す、此余八幡社領及び永源寺の寺領あり、又三枝が知行の跡は御料所となりて御代官支配す、検地の年代は詳ならず、又平塚新田とて当村持添の新田あり、開墾を企し者の氏を以て名付しと云、人家は僅に十軒ばかりあり、検地は宝暦八年(1758年)伊奈半左衛門糺せしと云、是も御料所なり、
高札場 四ヶ所
皆村の中程にあり、
小名
立野
土人の伝に元弘の乱にこの所に駒を立たるとてかく呼ぶとなり、されどこの説は浮たることなり、古へ立野の牧など云も当国には名けたる地名なれど、夫も此所なりとも思はれず、ことにたて野と唱ふるをもてみれば、別に故あることなるべし、その余入間川村に立野と云へる小名あり、
内子
此地は御入国の後、高井三郎兵衛が住し跡なりと云、其広さ五段(約49.59アール)ばかりの所なり、今に高井が鎮守の稲荷祠など立り、
田中
地頭山田市郎右衛門先祖の宅跡なりといふ、
峯
これも中根伝七郎先祖の栖し所なりと云、
星の宮
名のみにて宮居あるにはあらず、
北久米
駒形
八国山 〔附将軍塚〕
村の巽(南東)の方にあり、狭山の続きにて東の端なり、山の高さ十丈(約30.3m)余、山上より眺望すれば駿河・甲斐・伊豆・相模・常陸・上野・下野・信濃八国の山々見ゆる故に此名ありと云、されど今は樹木繁茂して眺望をさゝゆる故、名に聞へしほどの景色とも覚へず、此に一つの塚あり、是を将軍塚とよぶ、或は富士塚とも云、塚上に纔の平地ありて浅間の小社あり、此塚を将軍塔と云ことは、土人の伝へには元弘の乱(1331年〜1333年)に新田義貞此塚上に旗を立てゝ、床几を居し故に起りし名なりと云、今按に土人の説もうけかひがたし、今塚之様を見るに古代此所をしりし人などの塚なるも知べからず、因てかくよび来りしなるべし、
柳瀬川
西の方荒幡村より入、野口村の方より来る小流と二瀬合て流るゝ故、土人二瀬川とも呼ぶ、それより東に流れて北秋津村に沃ぐ、川幅は三十間(約54.55m)許、荒幡によりし所にては五六間(約9.09m〜10.91m)の流なり、
橋五ヶ所
何れも土橋にて、柳瀬川に架す、
八幡社
社領五石、慶長十一年(1606年)の棟札あり、時の地頭山田権右衛門・中根伝七郎・高井某等の名あり、当社鎮座は元弘二年(1332年)五月にて、新田義貞の願主なりと云伝ふ、
別当 仏眼寺
新義真言宗、多磨郡青海村金剛寺末、王禅山釈迦院と号す、本尊釈迦の立像を安ず、天正十九年(1591年)十一月社領五石の御朱印を蔵す、其文に入東郡久米郷と記せり、
天王社
村持、
熊野社
中根伝七郎が知行の内にて、其先祖の住居より鬼門に当りしを以鎮守とす、
氷川社
稲荷社二宇
一は昔高井某が知行せし時宅地の鎮守、一は山田市郎右衛門が先祖在住の頃の鎮守なりと云ふ、共に村民持、
永源寺
大龍山と号す、龍ヶ谷村龍穏寺末に属して、洞家の古禅刹なり、開山は一種長純和尚永禄八年(1565年)二月廿七日寂す、されど是は今の派に改めし開祖にて、寺の起立は由木永林寺と開山の僧同じと云、今按に当寺応永年中(1394年〜1428年頃)の鐘などあるを以て察するに、猶古き開闢なるべし、本尊釈迦開基大石氏の位牌を安ず、正面に開基英巖道俊大居士とあるは、瀧山の城主大石遠江守定久が法名なり、左右に秀岳宗關大居士直山道守座主とあるは、共に大石氏の法名にて宗關は陸奥守氏照なり、道守は遠江守信重なり、客殿に鐘をかく、刻して曰、
武州入東郡久米郷、大龍山永源禅寺、
住持雪心叟融立本願、檀那大石遠江入道、
応永廿九年(1422年)壬寅九月初吉日 直山 道守
衆寮
白山社
山王社
熊野社
長久寺
花向山と号す、時宗にて相州藤沢清浄光寺の末寺なり、開山常州阿弥陀仏慶長年中(1596年〜1615年頃)寂すと云、土人の口碑に此寺はいと古き起立にて、今多磨郡野口村徳蔵寺の境内に立る元弘年中(1331年〜1334年頃)の口碑も、そのかみ此寺の僧に請て造りしと云、されば一寺となりしは州阿弥の頃にて、それよりさきは庵室などにてやありけん、本尊は信濃の善光寺の弥陀を移せし日本四十八体の一なりと云、去れど其作者は伝へず、