所沢村 附新田(入間郡・山口領)
所沢村は河越城より南の方其行程及び江戸も前村にをなじ、安松郷吾妻庄に属すと云、古は野老沢と書けり、【廻国雑記】にもしか記せり、此所今江戸より秩父郡へ往還の馬次なり、村の大さ東西十三町(約 1.42 km)許、南北一里(約 3.93 km)程、東は下新井村に隣り、南は久米村にて、西は上新井村なり、北の続きは則当村の新田、家数二百六十五、月毎に三八の日市をたてり、駅の間往還の長さ十三町(約 1.42 km)、又古の鎌倉海道の名残なりと云道あり、道幅今は四五尺(約 1.21 m 〜 1.52 m)に通ず、南より北へ通ず、南の方に久米村より多磨郡恋ヶ窪の方ヘ達す、新田の間をすぎて其末は上野下野等ヘ通ずと云、今此海道の係る所を本宿と号す、されば此所昔も宿駅などにやありし土地に伝る所も、天正(1573年 〜 1592年)・文禄(1592年 〜 1596年)の頃迄も民家は皆此本宿及び久米村の内なる金山と云あたり迄も軒を列れしが、御打入の後今の如く居を移し替へしと云、村内陸田多し、民家戸毎に蠶を養ひ、機織を業とす、又木綿は土性にかなへるにや、極て好品なれば近郷の者所沢木綿と呼で珍重せり、正保(1644年 〜 1648年)の頃今井八郎左衛門が御代官所と内藤主馬が知行なりしが、私領の分は後に松平伊豆守が領地となり、其後又御料となり、今も御代官支配所なり、検地は伊豆守が領知の頃縄を入しが、其後追々開けし新田は延宝二年(1674年)御代官今井九右衛門・近山五左衛門等検地す、又村の北畑続きに武蔵野新田あり、民戸二十余、則ち本村の持添なり、
小名
本宿
古の鎌倉街道の跡なりと云、此辺より矢の根など穿出すことあり、されば古戦場ならんと土人いへり、思ふに【管窺武鑑】に当所にて上杉氏と北条氏と合戦ありしと見えたれば、此辺其時戦争の旧跡などにやありけん、
上宿
中宿
下宿
裏宿
河原宿
府中道
八つ塚
宮山
峰坂
三本木
長者窪
はぢ道
塚五ヶ所
喜生塚・平経塚・念仏塚・供養塚・庚申塚の名あり、此外に一里塚二つあり、
稲荷社三宇
二社は宝蔵院の持、一社は薬王寺の持、
神明社
村の鎮守なり、花光院の持、社地の入口に蔵殿社あり、
宝蔵院
野老山と号す、新義真言宗、多磨郡成木村安楽寺の末、開山宥円元和二年(1616年)七月二十四日示寂せり、本尊は大日を安置せり、
華光院
護国山と号す、同宗、多磨郡青梅村・金剛寺末、開山等の年代詳ならず、
金毘羅社
薬王寺
東光山自性院と号す、当寺始は臨済宗なりしが、孝山俊和住職の時より改めて洞家となり、郡中久米村永源寺の末に属す、俊和は慶長十九年(1614年)七月二十五日寂せしと云、相伝ふ当寺の開闢は南北戦争の頃にて其来由を詳にせず、新田武蔵守義宗の開基とも云、土人の話にのこりしは、南方の武将新田武蔵守義宗しばしば将軍方の軍勢と挑み戦しが、其勢力尽て跡を当所に隠し、薙染して此草菴にて逝せりと、此説信じがたし、外に証すべきものなし、ことに義宗が終焉の地は他国にも其つたへありといへり、此寺近きころ回禄の災にあひて、未だ再建におよばず、
寺宝 胄立台座
相伝ふ是新田武蔵守義宗が所持のものなりと、其図左の如し、径七寸(約 21.21 cm)、高三寸二分(約 9.70 cm)、上面は白木にて図の如く朱漆にて文字をかきたれど、剥落して読べからざる所多し、中央の孔は径一寸六分(約 4.85 cm)、裏迄回大さに貫けり、是冑を冠らしむる柱受の所なるべし、廻りはすべて朱塗なり、義宗が遣物なりと云ことも、語り伝へのみにして、させる証あるにも非ず、されど古質にして由緒ありげにみゆ、此余乗鞍などもありしが、回禄に逢びて烏有となりしといへり、

薬師堂跡
本堂と同時に回禄にあひ、烏有となれり、此堂に安ぜし薬師は坐像にして、長五尺(約 1.52 m)許腹籠の像あり、これは行基の作なりと云、秘仏なりとて容易に見ることを許さず、思ふに是古の本尊にて、寺号も此像によりて名づけしなるべし、
十王堂
実和院の持、
福泉坊塚
わづかの塚なり、福泉坊は古の修験者にて、【回国雑記】に観音寺にて福泉が竹筒を取出せしとあるは、この 福泉坊のことなりと云、されば文明(1469年 〜 1487年)・長享(1487年 〜 1489年)の頃の人なることしらる、この塚は其葬地なるにや、今此辺の小名に福泉とよぶ所は余程広ければ、そのかみ居住なせし跡なるにや、観音寺は今上新井村の内にあり、