上新井村 附新田(入間郡・山口領)
上新井村は河越城の行程前村に同じ、江戸よりは八里(約 31.42 km)なり、古へ此辺水利不便なりしを、昔弘法大師の教によりて井を掘りしかば、やがて清冷の水を得しに由て其名起りしと云、うけがたき説なり、猶小名の条見合すべし、山田郷吾妻庄に属すと云、家数百十軒、東は所沢・久米の二村に隣り、南は久米・岩崎の二村にて、西は北野村に及び、北は岩崎新田に境へり、皆畑の村にて東西二十町(約 2.18 km)、南北二十四五町(約 2.62 km 〜 2.73 km)、相伝ふ此村旧き開闢なれども、戦争の頃しばしば放火に逢ひ、土人散乱して一旦退転し、御入国の後に至て再び村落をなすと云、村内に江戸より秩父郡の方へ通ずる往来係れり、所沢宿より入、北野新田に達す、道幅三間(約 5.45 m)、外に江戸道とよぶものあり、是は小径にて北野村より村内へ入、岩崎村に通ず、当村昔より今に至りて御料所なり、寛文八年(1668年)御代官雨宮勘兵衛検地せり、此余村の北の方に新田あり、即当村の持添なり、そこに民家わづかに一軒あり、検地は元文元年(1736年)上坂安左衛門・長坂孫七郎糺せしと云、
高札場
村の中程にあり、
小名
三井戸
一つに満井ともかけり、村の中程にあり、其二つは今廃せり、土人の話に古此所に民家ありしが、其頃弘法大師行脚の時、立よりて水を乞ひけるに、あるじの女、機織をやめ遥の外に行て水を求め来り大師にすゝむ、大師水利の不便なるをあはれみ、よき水を得さすべしとて杖をもて地を画し、この所を掘らば清水を得べしと、果して清冷の水を得たりと云、村名も此井より起りしと云、是等のことは信ずべきにあらざれど、姑く口碑に伝ふるをまゝを記せり、
松葉街道
本宿或は宿河原ともよぶ、古の鎌倉街道なりと云へり、
大道
堂の上
阿弥陀堂の跡なる故に此名ありと云、此辺古の墓所と見えて古碑若干あり、正和(1312年 〜 1317年)・元徳(1329年 〜 1332年)・建武(1334年 〜 1336年)・永和(1375年 〜 1379年)・文明(1469年 〜 1487年)等の年号を彫刻せり、
柳窪
出口
八ケ
中原
西浦
中道
上の台
中窪
桃木窪
原
一本榎
六所社
当国府中の六所を勧請すと云、鏡剣玉の三種を木にて作り神体とす、普門院の持、
荒神社
稲荷社四宇
弁天社
観音院
新義真言宗、遊石山新光寺と号す、慶安二年(1649年)先規に任せ寺領六石の御朱印を玉はる、当院の来由を尋るに昔右大将頼朝奈須野狩にうつ立たまひし時、此辺を経歴せられ此所にて昼の餉せり、其仮の小屋を其儘建つき、田地を寄附して観音を安置せしが、其後戦争の場となり寄田を掠略せられしを、元弘(1331年 〜 1334年)建武(1334年 〜 1336年)の乱に新田左中将義貞この寺に至り、再び寺田を寄附せり、【巡国雑誌】を閲るに所沢といふ所に至り、福泉といへる山伏観音寺にて、さゝゆをとり出しけるに、薯蕷と云へるものさかなにありけるをとありて、俳諧体の歌あり、観音寺と云は此寺のことなるべし、されば文明(1469年 〜 1487年)の頃は早く一寺にて有しと見ゆ、然るに其後中絶し、数十年を経て中興せし時の開山を賢能と云、此僧は天正七年(1579年)三月化す、本尊は十一面観音立像にて長一尺五寸(約 45.45 cm)程、行基の作なりと云、
寺宝 鞍一掛
惣て黒塗なり、前後の輪に紋ありしが剥落して跡のみ存せり、寺伝には新田義貞が乗鞍なりといへり、
観音堂
権大僧都宥円が追福の為、正保三年(1646年)立しものなり、
石地蔵像
普門院
上洗山無量寺と号す、新義真言宗、多摩郡成本村安養寺の末寺なり、本尊不動、