打越村(入間郡・山口領)
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打越村は河越城より坤(南西)の方に当れり、江戸へは行程十里(約 39.27 km)なり、柳瀬郷と云り、或は庄とも唱ふ、東西五町(約 545.45 m)、南北三町(約 327.27 m)許の村なりと云ど、隣村と犬牙せし処ありて広狭定かならず、四境東は堀之内村にて、南は町屋・氷川の二村にそひ、西は川辺村に接し、北は北野村に及び、水田少く陸田多し旱損あり、家数十七軒、村内に古への鎌倉道と呼べる小径あり、北野村の方より氷川村と当村の境を通せり、この村正保(1644年 〜 1648年)の頃は匂坂与八郎が采邑なりしが、後御料所となり、今も御代官支配す、
高札場
村の中程にあり、
小名
久保田
海老か谷
柳瀬川
氷川村より入、堀之内村に達す、川幅二間(約 3.64 m)ばかり、
稲荷二社
共に村の持、
普賢院
古塁蹟の傍にあり、元は塁跡の内にありしを後こゝに移せしと云、新義真言宗、多磨郡中藤村真福寺末、天竜山西神院と号す、本尊弥陀、
常光寺
是も真福寺の末、後喜山と云ふ、
薬師堂
普賢院の持、
鐘楼
今堂内にかく、元は鐘楼ありしが破壊して再建に及ばず、元禄七年(1694年)の銘あり、その文に此堂は古き世の草創にて其年歴をしらざる由を載、
塁蹟
村の南の方にあり、六七反(約60〜70アール)許の処にて、土居の遺形等所々にあり、大手口は西の方なりしと云ど定かならず、東の方土居の外に児池と呼纔なる池あり、今は町屋村の地に属せり、土人の云この塁は往古山口但馬守〔或は勘解由と云〕居住せし所なりと、按に山口但馬守は慶長年中(1596年 〜 1615年頃)此辺に住せし由其家譜に載たれば、彼が塁跡と云こと疑ふべし、若くは岩崎村瑞岩寺の条にいへる、平内左衛門が住せし塁跡なるにや、尚瑞岩寺の条見合すべし、