堀之内村(入間郡・山口領)
堀之内村は河越城より坤(南西)の方なり、江戸より行程前村に同じ、郷庄も上にひとし、隣村打越村に山口某の塁蹟あり、こゝは其外廓の堀の内なりし故名とせりと、此辺の村々旧きものには多磨郡と書せし処多く、既に当村も古へは多磨郡に属せしと云、郡内に堀之内と唱ふる所二村あり、一は元三ヶ島村の内に属せし故、後三ヶ島堀之内と唱へ、一は山口領にあるを以て、山口堀之内と云、東西三町(約 327.27 m)許、南北二町(約 218.18 m)余、東は岩崎村に隣り、南は荒幡村に接、西は打越村にて、北は北野村なり、家数十九軒、外に勝光寺領の農民三軒あり、陸田のみの地にて、やすれば旱損あり、正保(1644年 〜 1648年)の頃御料は御代官松本市左衛門支配し、私領は坂部佐吾右衛門・小林権平・武蔵八郎左衛門・松風十左衛門・久貝惣左衛門・長田理兵衛・武蔵孫之丞・久松彦左衛門等の八人知行せしが、いつの頃か皆他の地に転ぜられ、一円に御料所となり、今も御代官支配せり、検地は寛文八年(1668年)雨宮勘兵衛糺せりと云、
高札場
村の中程にあり、
小名
倉田
天王久保
溝の上
梨木
中内手前
柳瀬川
打越・荒幡二村の間に村の地少くかゝれり、其境を流る、
来迎寺
天光山無量寿院と号す、曹洞宗、多磨郡二又尾村海禅寺末、開山栄芝順富天正十年(1582年)六月十七日寂す、今寺領十石の御朱印を賜はる、境内も其寺領の内なり、昔文禄四年(1595年)大野八右衛門と云者田二反(20アール)を寄附せり、よりて慶安年中(1648年 〜 1652年頃)に至り、先規の如く此御朱印を賜ひしなり、本尊三尊の弥陀立像にて長三尺(約 90.91 cm)余、眼中へ真珠瑠璃を入る、この像を車返しの弥陀と呼、其所以を尋ぬるに、此像元奥州秀衡の守護仏なりしを、右大将頼朝の所望に因て鎌倉へ持行んと、奥州よりはるばる携出武蔵国府中の車返村まで来りしに、此事鎌倉へ聞こへしかば、車を牽来て迎えけるに行逢たり、然るに此像鎌倉へ行くことを欲せず、此堀之内の地に安置せよとの告ありければ迎えの人々空く車を返しけるとなり、夫よりかの車返の地名も起りしといへり、脇士観音勢至長各四尺(約 1.21 m)、此二像は運慶の作なりと云、門前に建長八(1256年)辰二月廿八日と書せし古碑立り、いかなる碑なること詳にせず、
勝光寺
瑞幡山と号す、臨済宗、京都妙心寺の末、昔は鎌倉建長寺の末に属せしと云、開山僧石門寂年を伝へず、中興の僧を慶叟と云、此時始て今の本山に属せしとなり、又此慶叟が時天正十九年(1591年)に寺領二十石の御朱印を賜へり、其文には地名を日東高麗と記せり、寺伝に云昔此辺総て高麗郡の内なりしが、今井九右衛門が御代官所の時より当郷へ入りしとなり、されど総説にものする如く、古くは多磨郡に属せしよし伝へもあればうけがひがたし、本尊白衣観音、
不動堂
此像は長四尺(約 1.21 m)許、若狭法眼賀竹と云者、天文十七年(1548年)につくりしものなりといへり、
楼門
楼上に鐘をかく、享保年中(1716年 〜 1736年)に鋳しよしを刻せり、釈迦文殊普賢及十六羅漢等の像を安置せり、