北野村 附北野新田 中北野新田(入間郡・山口領)

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北野村は河越の城より西南に当りて四里(約15.71km)を隔つ、江戸より行程十里(約39.27km)に余れり、家数二百余、村の東は上新井村及び岩崎村に隣り、南は堀の内・打越・河辺・堀口の四村に接し、西北は三ヶ島村と同村の新田及び北野新田等あり、東西廿七八町(約2.95km〜3.05km)、南北二十町(約2.18km)、水田は少く陸田は多し、天水を以て耕せばしばしば旱損あり、検地は慶安四年(1651年)なり、当所御料私領入会る所にして、小林勝之助が知行は御打入の頃賜はりし由、その家に伝へたれど、花井庄右衛門が知行は其賜はりし年代を詳にせず、されど正保(1644年〜1648年)の頃はすでに花井が知行せしことものにみえたり、此余にも天神の社領あり、又当村より一里(約3.93km)余隔て、武蔵野開発の中に当所の新田あり、四方二町(約218.18m)余、家数二十余、御料所にして宝暦八年(1758年)伊奈半左衛門検地せり、又此新田の続きに中北野新田と唱ふる処あり、四方三町(約327.27m)余、民戸纔に三軒、此も御料所なり、

高札場 五ヶ所

四は本村にあり、一は北野新田にあり、

小名

せいしか橋

こゝに石橋あり、相伝ふ元弘の乱に此所にて軍兵ちかひをなせし故に、かくなづくと云、

椿峰

巽(南東)の方、山の上大なる椿ある故に、かく名付けり、

上北野

西打手

みかど

やばた

番匠免

富士塚

さすがいと

梅谷

ばんちか堤

猿田

谷寺

えぼ

以上本村に属せり、

竹の台

竹か原

天神原

稲荷原

以上北野新田にあり、

小手指原

村の艮(北東)の方を云、今はおしなべて陸田となれり、

天神社

これ神名帳に載たる物部天神の社にして、祭神は饒速日命なりと云、今は北野天神・小手指大明神の二座を合せ祀れり、又式内の神国渭地祇社・出雲祝神社をも合せてこゝに祀ると云、縁起の大略に云、当所式内三座の神社は、景行天皇四十年日本武尊の天神・地祇・劔義神を祀り給へるなり、其帯せられし草薙の御劔は、元出雲国八岐の大蛇の尾より出たる劔なり、是を移し祭り給ふ故出雲祝神社と云、又欽明天皇の御宇、十二年(551年)十一月十五日武蔵野小手指原の霊神、并に日本武尊を合祭し、小手指大明神と崇む、一条院の御宇、管丞相五世の孫、菅原の修成武蔵国守の時、菅公の霊夢の告により、長徳元年(995年)二月廿五日勅許を蒙り、京北野天神を関東に移し給ひ、坂東第一北野天神と号す、其後源頼義・義家父子奥州の朝敵追罰の宿願によりて、総社建立あり、又建久六(1195年)乙卯年九月十五日正八幡一字を勧請あり、此時本宮九社とも修造ありて、式内の諸神勧請諸神宮と号し、社領二百宝の地を寄附せり、旧領を合せて二千二百貫文なり、然るに建武(1334年〜1336年)・延元(1336年〜1340年・南朝)の戦争に社地尽く兵火にかゝれり、延文元年(1356年・北朝)丙申に至り、将軍尊氏又諸社建立ありしが、応仁元年(1467年)に及び天下又大に乱て社頭再び烏有となり、年久しく廃社となりしが、天正十八年(1590年)小田原陣の後、加賀利家再興して、菅公真蹟の経文及び宗近の太刀に黄金を添て寄附せしと云々、以上の説信ずべからざるもの多し、ことに式社の三座を合祀すと云こと最疑ふべし、恐らくは後世近郷にありし式社の廃絶せしを、神職のはからひにて合せてこゝに祀りしならん、又村名を北野と呼び、且応永四年(1397年)左兵衛督源某と云し人より下せし文書に、北野宮のこと先例の如く、沙汰すべき由をのせ、及び天文(1532年〜1555年)・弘治(1555年〜1558年)以下の文書にもみな北野宮と記しあれば、かの地主物部天神は古より祀りたらんか、北野天神を勧請せし後は、式社の名はかへりて、唱へざりしことゝは見たたり、今の社領御寄附の御朱印の文にも、北野天神領五十石としるされたり、

神輿堂

本社に向て左にあり、

神楽殿

社前にあり、

諸神社

本社に向て左にあり、縁起に建久六年(1195年)九月、式内の諸神勧請諸神宮と号すと云もの是なりと、されば国渭地祇社・出雲祝神社等をこゝに移せしは、建久(1190年〜1199年)後のことにして、景行天皇の御宇式内三座を当所に祭れりと、まへに見えたるはいよく信ずべからず、

社前にあり、囲み一囲(約1.5m〜1.8m)許、天正十八年(1590年)加賀大納言利家当社を再興して、新願所と定めし時、庭前に梅一本を植ゆ、よりて大納言梅と称す、

これも社前にあり、日本武尊式社勧請の頃、栽給ひしにしにより、尊桜と称せりなどいへど今もやうやく二囲半(約3.75m〜4.5m)に過ぎれば、当時のものともおもはれず、近き比所沢の名主、碑を立て歌などを刻し、尊の由緒あることを詠ぜり、

末社

祖神社

稲荷社

諏訪社

浅間社

日宮

月宮

以上は本社の西に並びてあり、

春宮

五行宮

風祭宮

雨請宮

山神宮

若宮八幡宮

子持宮

子安宮

以上は本社の後に並べり、縁起を閲るに雨請・山神二社の間に日請の一社をのす、これはのちに廃せしと見えて今はない、

疱瘡神社

五穀社

疫神社

結明神社

石神社

祓所社

文子社

以上は本社の東にあり、

神職栗原左衛門

南大門の傍にあり、其家系を詳にせざれど、小田原陣の比の文書に神主栗原伊賀守とあれば、北条分国の比は已に左衛門が先祖神主たりしこと見ゆれど、この前はいつの比より司ると云ことをしらず、縁起に拠に大宮司は、天児屋根命十六代大中臣朝臣令麻呂長男、多美丸七代大宮司上毛野元重が時、領地二千貫文を賜はりてありしが、後鳥羽院の御宇建久六年(1195年)九月十九日、社領二百貫文の地を寄附すと云へり、此の子孫は断て、其後別に神職となりて、相続するなるべし、今所造の文書左に載す、

寄進武蔵国北野天□
同国山口郷内北野宮井田畠在家 従□□□□別紙
右任先例沙汰可□神事之状如件、
応永四年(1397年)八月廿五日 左兵衛督源次□〔花押〕


北□□□職事、如前々可被勤之条得其意候、恐々謹言、
天文十一年(1542年)二月十五日 道俊〔花押〕
北野宮神主殿


武州神職司勤之神祭等令執行、天下之御祈祷可抽丹精者也、
天正十八年(1590年)七月五日 利家 印
北野神主 栗原殿


為天神宮勧請、黄金二百枚捧之、御自筆之御経一部、并御太刀一腰むねちか、奉納之、愈武運長久、可給御祈祷□□□、
北野神主殿


禁制
□喧曄口論之事、
□買狼藉之事、
一郷質国質買取事、
右於武州北野之神事、此旨堅停止畢、若於違犯輩者、速可処罪科状如件、
北条家虎印
乙卯四月三日 弘治元年(1555年)歟


尚以山変来以下社中之掃除、厳可被申付候以上、御天神之拝殿、其外社中之破損無之様に可被申付候、并御神宝以下無分異之様に有仕置候、為其申候仍如件、
天正十七(1589年)己丑年卯月三日 秀信〔花押〕


一放火之事、
一対地下人百姓非分申懸事、
右条々堅令停止訖、若違犯之輩於在之者、忽可処厳科者也、
天正十八年(1590年)六月日 浅野弾正少弼〔花押〕
木村常陸介〔花押〕


武州神職司如前々可被勤之、然者神職中召連御神湯祭可馳廻、其方如申付何も可罷出候、恐々謹言、
寅七月四日 木村常陸介〔花押〕
神主 栗原伊賀守殿□□

以上八通は今見に伝る所なり、この余元ありて今失ひしものあり、その文に


武州神職司之事、如前々可被勤候、然者今度少旦那持候付而、十玉坊与相論候、前々証文無紛候条、得其意候、恐々謹言、
十一月九日 真月斎道俊判
北野宮神主殿


北野宮神主職之事、如前々可被勤条得其意候、恐々謹言、
永禄壬戌(永禄五年・1562年)拾月廿日 太田資正判
北野宮神主殿


受領之事、被補任伊賀守者也、依如件、
永禄十年(1567年)丁卯霜月廿三日 氏照判
栗原殿


稲荷社二ヶ所

諏訪社

御嶽社

八幡社

神明社

以上上社何も百姓の持なり、

小手指明神社

北野新田にあり、この辺開墾の後、北野社に合せ祭れる小手指明神の持に、勧請して当社の鎮守となせり、

梅泉寺

梅覚山と号す、新義真言宗、多磨郡中藤村真福寺の末なり、地蔵を本尊とす、

広福寺

真福寺末、本尊は不動、

全徳寺

梅林山と号す、禅宗、多磨郡平井村実光寺の末、開山顧山明鑾永禄十一年(1568年)五月六日遷化す、本尊虚空蔵を安置す、鐘楼あり、

無量寺

禅宗、臨済派、堀ノ内村勝光寺の末、本尊弥陀を安ず、

清水寺

天台修験にて江戸霊厳嶋善門院の配下なり、本尊大日を安ず、