三ヶ島村附新田(入間郡・山口領)

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三ヶ島村は河越城より未(南西)の方四里(約15.71km)を隔つ、武蔵野新田未だひらけざるまへは、此辺多くは原野なりしに、此所のみ人家三区にわかれて、自ら村落をなせしさま、たとえば三箇村の島のごとくなりしゆへこの名起りしと云、今も村内に西島・中島・東島等の唱あるはその故なりとて、江戸より十里(約39.27km)の行程なり、宮寺郷久米庄〔又小山庄とも云〕に属す、按に村内長宮社にをさむる正長元年(1428年)九月廿三日の棟札の文に、大旦那宮寺惣地頭平朝臣蔵人入道一家弾正重定沙弥道椿、四郎左衛門信重、吾那安芸守・久下筑前守としるし、又天文廿三年(1554年)四月廿一日の札の文に、大旦那宮寺惣地頭豊後入道沙弥芳金・嫡子蔵人佐末子・向山勘解由左衛門尉高行・成木郷宮寺下野守と云々、是によれば此辺すべてかの蔵人入道が領所なり、正長元年(1428年)より天文廿三年(1554年)まで凡百廿七年を経し後なり、その比は豊後入道芳金こゝを領せり、この豊後入道は蔵人入道が子孫なるべければ、連綿とこの所を領し来りしならん、又同じ社に丙寅霜月十日奉行向山甚五郎としるせし、北条氏輝の旨をうけて出したる文書あり、この丙寅は永禄九年(1566年)なるべし、天文廿三年(1554年)を去ることわずかに十三年なり、この甚五郎は前にのする向山勘解由左衛門が親属なりとみゆれば、この比北条家に属して世々この所の地頭なりしことをして知べし、今村居のもの凡百五十余、東は北野村に隣り、南は勝楽寺・堀口の二村に接し、西は麹屋村及び三ヶ島・堀の内村につづき、北は林村に界ふ、東西二十丁(約2.18km)、南北も大抵同じ、水利の便あしきゆへに陸田多くして水田は少ければ、猶旱損の年多し、当村御料私領入交れり、私領は沢次郎右衛門・久松彦左衛門・武蔵定五郎等三人の采邑なり、沢が采邑は東照宮より賜ひし所にして、其余二人の賜はりしはいつの比なりしや伝へず、外に寺領若干あり、妙善院・宝玉院・常楽院・照明院・龍蔵院等の領なり、其佗長宮の神領あり、御領の検地は寛文十二年(1672年)中川八郎左衛門・今井九右衛門糺せり、沢次郎右衛門が知行は寛文二年(1662年)なり、久松彦左衛門は寛文九年(1669年)なりと云、其余の検地は年代を伝へず、

高札場

三ヶ所ともに村の中程にあり、

小名

山王塚

内手

寺山

昔妙善院此所にあり、今常楽院の境内にある暦応二年(1339年・北朝)五月二日沙弥了秀としるせし碑は、こゝより掘出せしものなりといへり、

北の馬場

勝楽寺村に城ありし時、城中の人の調馬せし所なりといふ、

砂川

爰に細流あり、是を末無川と呼ぶ、末流武蔵野に至り散流す、

下田

とつら入

よし尻山

樽井戸

藤塚

長宮明神社

社領十石の御朱印を賜はる、祭神は素盞烏尊・稲田姫・大己貴命・少彦名命の四座を祀れり、相伝ふ当社は神名帳に載たる中氷川神社なりとぞ、証とする所は古き棟札ありと云、其文に武州入東郡宮寺郷、中氷川神社殿造正長元年(1428年)九月廿三日、また天文二十三(1554年)甲寅年四月廿一日、社造営のときの棟札あり、文は大抵前に同じ、此二枚は今棟木を穿ち凹めて其内に収め、木を埋めて其上を蓋ひ、たゞその写のみを伝ふ、その文体当時のものなるべく覚ゆれど、たゞ疑わしきは斯の如き証拠あらば、などか中氷川の神号を用ひずして長宮とは号するや、別にゆへあるか、又中宮と云べきを誤り伝へてかく唱ふや、

槻木

本社に向て右にあり、四百余年の古木なりと云、

末社 荒脛社

手無槌・足無槌を祀る、

神職宮野出雲

家系詳ならず、按に正長(1428年)の棟札に神主左衛門太夫家吉、天文の札に新左衛門尉とあるは、出雲が祖先なるにや、今も八王子北条氏照の文書を蔵す、その文左に、

制札
右三ヶ島之内於長宮、大神楽之執行畢、見物衆中横合之儀有之者、可処罪科旨被仰出者也、仍如件、
丙寅(1566年・永禄九年)霜月十日〔滝山朱印〕
奉行
向山甚五郎

石尊社

百姓の持、

稲荷社

宝蔵院の持、

八幡社

百姓の持、

湯殿権現社

是は照明院領の内にて、則かの院の持なり、土人大日堂と号す、

妙善院

光輪山と号す、曹洞宗、多磨郡前沢村浄牧院の末寺なり、慶安年中(1648年〜1652年頃) 寺領十一石余の御朱印を賜はる、開基は家伝によれば沢次郎右衛門吉縄が子、勘七郎吉宗といひし人なりと云、又寺伝に云所はもとの地頭沢次郎右衛門幸勝その亡父次郎右衛門幸時がために、開山僧吞碩を住持として起立せり、幸時が院号を光輪と云、是を山号とす、吞碩は承応元年(1652年)三月十日化す、本尊白衣観音坐像にして長六寸(約18.18cm)許り、行基の作なりと云、当寺古くは小名寺山と云所にありしを、後こゝにうつせしと云、

惣門

楼上に十六羅漢の像を安ず、

金毘羅社

白山社

衆寮

古墓

五輪の塔なり、嘉暦四年(1329年)三月二日了順麻六十二歳と刻す、是沢次郎が碑なりと云、されど其家の記によれば、先祖佐和次郎が墓当寺にあり、その碑面に佐和次郎嘉暦元年(1326年)としるし、法名月日等詳ならずと云、されば其正しきことをしらず、たゞし嘉暦四年(1329年)の墓は自ら別人なりや、何人の墓なることをしらず、

宝玉院

古は東鳩山と号せしが、後に稲荷山と改む、これも寺領十石の御朱印を賜へり、新義真言宗にて、多磨郡成木村安楽寺の末なり、本尊は不動を安ぜり、

常楽院

長坂山薬王寺と号す、薬師堂領七石三斗の御朱印を賜はる、新義真言宗、多磨郡中藤村真福寺末、本尊不動を安置せり、

薬師堂

照明院

湯殿山と号す、寺領七石三斗の御朱印を賜ふ、新義真言宗、多磨郡成木村安楽寺末、開山僧長賢年代詳ならず、本尊は大日 を安置せり、

天王社

熊野社

龍蔵院

本山派修験なり、応長元年(1311年)良円と云もの起立す、此良円は宮寺五郎と云もののゝ子にて、初宮寺小太郎家吉と称し、此所に螢居し優婆塞となりて世々土着す、十六世宝山がとき慶安年中(1648年〜1652年)始て寺領六石三斗の御朱印を賜はる、其文には玉蔵坊とあり、その後改めて愛宕山高林寺龍蔵院と号す、高麗郡笹井観音堂の末に属す、いつの比よりにや勝軍地蔵の像一躯を蔵す、霊験あらたなる故、是を神体として愛宕権現を勧請せり、されば此権現領として御朱印をも賜はりしと云、今境内に地蔵堂あり、木像にして長一尺二寸(約36.36cm)、弘法大師の作なりと云、

観音堂

妙善寺持にて、同寺領の内にあり、正観音坐像にて長一尺(約30.30cm)、運慶の作なりと云、

弥陀堂 二字

ともに百姓の持なり

薬師堂

妙善院領の内にて、則その持なり、

古戦場

字下田と云所に東西へ流るゝ小流あり、此所新田義興と足利尊氏と戦ひし所なりと云、かの流にそひて数株の梅樹あり、是【太平記】に載たる花一揆の人々梅花の枝を折て旗にさしたりとあるは、此梅林の枝を折とりしなりと云、 されば文和元年(1352年)の古戦場なるべきなり、

旧家者庄右衛門

仲氏なり、先祖を仲筑後守資信と云、同郡古尾谷の城主なり、資信が男を近江太郎信重と云、村内中氷川神社の棟札にも其名みえたり、信重の男蔵人将監資重より子孫伊太夫図書等の数代をへて、今の庄右衛門に至る、かゝる旧家なれば今に至るまで中氷川祭礼の時は、必庄右衛門第一に祭事に預ると云、按に古谷上村善仲寺・下南畑村万蔵寺·西蔵院等の伝にも、中筑後守古尾谷近江太郎の事実を伝へり、其伝説をあはせ考ふるに、混乱して弁じがたければ、姑くこゝに家伝のまゝをのす、見るもの参考なすべし、