堀之内村(入間郡・山口領)
堀之内村は古は三ヶ島村の内なり、よりて今三ヶ島堀之内ともいへり、元禄(1688年〜1704年)郷帳には三ヶ島村枝郷と記す、されば其頃は巳に分村せしと知らる、川越城より南四里(約15.71km)を隔つ、江戸よりは八里(約31.42km)の行程なり、戸数五十軒、三ヶ島村の東続きにて、南は勝楽寺・矢寺の二村に隣り、北より西へは麹谷村にさかふ、東西六町半(約709.09m)、南北五町半(約600.00m)、地形高低あり、大岡源右衛門が御代官所と武蔵定五郎が知行所と入あへり、検地は寛文十二年(1672年)中川八郎左衛門たゞせしと云、
高札場
村の中央にあり、
小名
山の神
与兵衛久保
堂入
八石久保
宮の前
下中島
別所山
内手
谷山
溜池
三ヶ所いずれも村の南にならべり、
金仙寺
名主政右衛門が旧記に拠に、当寺は小田原北条家分国の頃は、小名堂入と云所にありて、北条氏より阿弥陀免として八町(約7.93ヘクタール)余の地を寄附せしが、小田原滅亡の後丙丁の災(火災)にかゝり、堂宇悉く烏有となり寺地さへ失ふに至れり、御入国の後も暫く廃寺となりて有りしを、慶安年中(1648年〜1652年)に至りて寺領九石の御朱印を賜へり、爰に於て絶たるを継ぎ、今の如く堂宇を結構せしと云、新義真言宗、多磨郡青梅村金剛寺の末寺なり、本尊弥陀立像にて長五寸(約15.15cm)、行基菩薩の作なりといへり、
七社権現稲荷天王三座合社
観音堂
馬頭観音を安ず、宝永年中(1704年〜1711年)村内金仙寺住僧の建立せし堂なり、村の持、
旧家政右衛門
氏を石井と云家の旧記を蔵す、其大意に云、先祖は勝楽寺村りうかいの城主豊後入道伏見小太郎〔按に勝楽寺城跡に星見小太郎に作る〕と云人の家人、筑後守と云て三ヶ島村に居れり、小田原陣の時にや、りうかいの城攻落され、村内別所山とて四方十丁(約1.09km)許ある山へ、かの豊後入道が子六人をあひ具して隠れ住み、農耕を事とし子兵庫助まで二代谷山に居れり、今の与平次山くぼ屋敷跡はその旧跡なり、