中野村(入間郡・山口領)
中野村は川越城より坤(南西)に当りて四里半(約17.67km)を隔つ、爰も宮寺郷の内なり、されば正保(1644年〜1648年)の頃までもおしなへて宮寺町と号せしなれども、小名は旧く中野と云しなるべし、堯恵法師が【北国紀行】に、水無月廿八日〔文明十九年(1487年)なり〕、武蔵野の内中野と云所に、平重俊といへるが催に因て、渺々たる朝露を分入て瞻望するに、何れの草葉の末も只白雲掛れるを限と思ひて、又中宿りの里へ帰り侍りて、〔中略〕
霧払ふ道は袖より村消の、草葉に帰る武蔵野々原、漸く日高くさし昇りて、よられたる草の原を凌ぎたるほど暑さ忍び難く侍りしに、草の上に只泡雪の降るかと覚ゆるほどに、富士の雪浮びて侍り、
夏しれる空や富士の根草の上の、白雪暑き武蔵野々原堀兼の井近き
そことことなく野はあせにけり紫も、堀兼の井の草葉ならねど、此は此村なること土人も伝へざれど、堀兼の井近しなど云を以考ふれば、此地なるべく思はる、されど多磨郡にも中野村ありて、然も武蔵野新田に近ければ彼の中野なるかは知ず、当村江戸より十一里(約43.19km)の行程なり、家数五十七、四境は東の方荻原及び小ヶ谷戸の二村に界ひ、西は坊村・二本木村南北に接し、只北の方は大森村に界ひし所もあり、都て荻原・小ヶ谷戸・大森の地は犬牙して別ちかたけれど、大抵東西二町(約218.18m)、南北十町(約1.09km)程なり、尽く陸田にして水田なし、ちかきころより村民初夏には茶を製して江戸へひさぎ、頗る生産の資をなす、土屋家譜に土屋甚助利常天正十七年(1589年)駿府に於て東照宮に謁し奉り、二百石の地を爰にて賜はりしよし、夫より今に至るまで子孫連綿して甚助知行せり、此余二本木村地福寺の除地村内にて賜はりしもの若干あり、検地の年代詳ならず、
高札場
村の中央にあり、
小名
清水
橋場
落合
小橋
大道
よしが橋
八幡山
竹の花
大橋
小御堂
昔此地に小御堂ありし故此小名ありと云、是矢寺村の大御堂に対して唱ふるよし、猶矢寺村の条并せ見べし、
縄竹
南の方なり、飛地にして、本村を距こと十七八町(約1.85km〜1.96km)、爰に民戸三軒あり、
寄木明神社
御朱印社領十石を賜はる神名帳に載たる国渭地祇神社是なりと、口碑に伝へたれど、させる証跡はなし、祭神は素盞鳴尊を祀ると云、本社幣殿拝殿等備りて前に木の鳥居を建、矢寺・荻原・小谷戸・大森・中野・坊・二本木等七村の鎮守なり、此辺を宮寺郷と号することも、当社に権興せしならんと云、
神職
北野村天神社神主、栗原左衛門兼て司どる、
八幡社
何の頃か此辺より石劔を土中に得しことあり、因て神体として祀りしなり、長久寺の持、
神明社
同寺持、
武塔天神社
祭神詳かならずと云、按に京祇園縁起に素盞鳴尊童児たりし時、牛頭天王と号す、又武塔天神と号すとあり、然れば祭神は素盞鳴尊なるべし、此地元地頭土屋氏の先祖住居せし跡なりといふ、村民の持なり、
長久寺
浄悦山涼光院と号す、新義真言宗にて多磨郡中藤村真福寺末なり、中興の僧を頼喜と云、正徳六年(1716年)二月十四日寂す、本尊不動、
馬鳴堂
蚕の守護神なり、神体は馬上の像なり、例祭は三月十九日なり、
地蔵堂
古此地に小御堂建りしが、廃絶して後此堂を建しとなり、村内長久寺の持、
龍正院
当山修験、寺竹村龍蔵院の配下なり、