木蓮寺村附新田(入間郡・金子領)
木蓮寺村は河越城より西の方五里(約19.64km)を隔てり、江戸より行程十二里(約47.12km)、下の三ッ木村に至るまで同じ、爰より扇町屋の辺までを金子郷桂庄八潮里と唱ふ、按に道興准后の詠に、里人のやせと云名やほりかねの、井に水なきを侘てすむらん、と読たまへるは此辺のことなるべければ、旧くよりの唱なるべし、村の広さ東西へ二町(約218.18m)余、南北三十町(約3.27km)、東は岸村に境ひ、南は栗原新田に接し、西は多磨郡今井村に交りし所は界最犬牙したれば、細かには分ち難し、北は高麗郡の村々入会へる秣場に隣る、民戸七十六、水田少く陸田多く、旱損あり、村の南の方に青梅辺より扇町屋へ至れる一条の往来あり、此村名の起りは村内瑞泉院を昔木蓮寺とも、木蓮寺とも号せしにより、かく号るならんと云、猶下の彼寺の条見合すべし、御入国の後は御料所にて瑞泉寺領も交れり、寛文八年(1668年)に深谷喜右衛門が検地せしことあり、其後田安殿領と成しより今も替らず、此外南の方村続きに八町七畝十八歩(約7.96ヘクタール)、武蔵野新田あり、是も寛文八年(1668年)深谷喜右衛門検地せしと云、此後開墾の処ありしは明和九年(1772年)久保田十左衛門検地せり、爰は御料所なり、
高札場
村の中程にあり、
小名
長原
下久保
榎下
皂莢久保
藪田
比丘尼久保
峡下
桂川
村の中程を流る、或は霞川ともいへり、多磨郡今井村より峯村に至る、川幅四五間(約7.27m〜9.09m)、砂利川なり、
橋 二ヶ所
共に桂川の内野径の往来に架す、長さ五間(約9.09m)余の土橋なり、
赤城明神社
当所の鎮守にて、村内福昌寺・瑞泉院両寺の持なり、
末社
稲荷社
天王社
御霊明神社
当社は金子十郎家忠の弟金子与市を祭るよし、村民及び福昌寺の持なり、
瑞泉院
御朱印十五石曹洞宗、初め臨済なりしが後改めしと云、その改めし年歴は詳ならず、甲斐国山梨郡落合村永昌院の末、金龍山と号す、開山は神嶽通龍禅師は中興せしなるべし、夫をいかにと云に、当寺は金子十郎家忠が開基にて、家忠は建保四年(1216年)二月十七日卒す、法諡を瑞泉院雄翁道英と云、これ此院号の起りし故なり、さて建保(1213年〜1219年)と永正(1504年〜1521年)とは中間二百九十年の星霜をへたり、又寺伝に家忠が妻畠山氏建仁元年(1201年)三月廿三日家忠に先て歿せしとて、その石碑も境内に立り、法諡を木蓮院或は寺とも、標室寄榜と云、されば当寺始は木蓮寺と号せしを、後に家忠が法号をもて寺号をも改めて、瑞泉院と号するは、通龍禅師中興の時などにや、又按に【証語集】に菊隠禅師諱瑞潭、字菊隠、嗣法一華云々、開甲之善応、奥武之瑞泉兼帯、住持法化大行、大永四年(1524年)十二月示寂とあり、是によれば当寺をば菊隠禅師開山し、己が師神嶽通龍をもて勧請開山とせしは論なし、されど神嶽通龍及び菊隠等は、永正(1504年〜1521年)・大永(1521年〜1528年)の示寂と云は、前にもいへることく年代たがへり、又この文によるに、永正(1504年〜1521年)・大永(1521年〜1528年)の比は、已に院号を改めしことしるべし、又過去帳に金子氏代々の法名卒年もありて、甚明備なれど疑ふべし、金子氏の子孫今松平大膳大夫の家に残れり、則金子十郎左衛門忠義・同六郎左衛門忠行より当寺へ贈りし書を蔵せり、其内に金子氏の由来及び此地を草創せしことをのせられたれども、此人のことは爰のみに非ず、多磨郡金子村の条に弁じたれば、こゝにはのせず、
鐘楼
文化(1804年〜1818年)年中の銘あり、取るべきものなし、