入間川村附新田(入間郡・未勘)

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入間川村は河越城より坤(南西)の方二里半(約9.82km)、江戸よりは十二里(約47.12km)の行程なり、入間郷山田庄東領と呼ぶ当村は旧き名にして、郡名もこゝより起りしはもとよりなるべし、今按に村内子神社に掲げし応永二十三年(1416年)の鰐口の銘に、入間郷云云とあり、こゝに入間郷と彫たるは、全く村と云の心にして、郷名には非るべし、されど今も当村及び隣村奥富を入間郷と唱るは、もしくは古への郷名の唱へのこりしならんか、又川の字を添しは、近き比よりのことと見えて、正保年中(1644年〜1648年)の国図及びその頃の郷帳には、入間村とのみ記したり、当村東は上奥富村にとなり、南は北入曽・黒須の二村にして、西北は高麗郡広瀬村及び柏原村にとなる、此二村は入間川を界とす、長の方は又当郡地にて上奥富村にさかへり、東西三十五町(約3.82km)、南北二十四町(約2.62km)に及べり、土地に高低ありて、東の方は高くして畠多く、西は川に添て土地ひくくして、其辺にわずかの水田を開けり、用水は入間川の水を出入るといへども不便にして多くは旱損を免れず、村内江戸より秩父郡及び西上州への往還と、多磨郡八王子辺より川越城下への往来かゝれり、此二道の内秩父より江戸への往来は、高麗郡高萩村より人馬をつぎ、当宿よりして所沢の宿へ送る、又八王子より川越への道は、扇町屋より当所へつぎ、夫より大袋新田へ達す、又上州及び当国秩父郡への往還は南の方北入曽村より入て、宿の中程を横切、乾(北西)の方入間川を越て高麗郡広瀬村に達す、又八王子よりの往還は、坤(南西)の方黒須村より入て上奥富村に通ず、民家は多く此道の左右に軒をつらぬ、戸数すべて三百八十余、又古の鎌倉道の跡は小名中宿と云所の裏に当りて、子の神と云所あり、こゝより入間川を渡りて、高麗郡広瀬柏原の間に通じて女影村に続けり、これ正慶年中(1332年〜1333年)鎌倉攻の時、新田義貞上州より打て出てこの道にかゝり、入間川にて左近大夫入道恵勝と対陣して、終には打勝、府中へかゝつて鎌倉へ攻入しと云、されど当所より南の方府中までの間は、其古道もさたかならず、土人の話によれば、村内上新田より小手差原を横ぎりて、久米川へかゝり府中へ出し如く想はる、又郡中苦林玉林寺の村々にても、鎌倉古道と云所あり、其道は入間川より女影村へつづき、夫より市場大類苦林の村々にかゝり、比企郡将軍沢須賀谷に続けて小径あり、是古の海道にて、夫より児玉郡本庄宿へつづきしならんといへり、当村に伝ふる所と符合せしに似たれば、これ疑なき古海道にて、語り伝へし如く義貞上州笠掛野より此道にかゝりしなるべし、猶【太平記】武蔵野合戦の条と照見してしるべし、此地古の領主は伝へざれど、【北条役帳】を閲るに、松田左馬助が知行百五拾貫文入間川卯検地辻とのせたり、御入国の後は姑らく御料所なりしや、又は川越の下邑にて酒井讃岐守忠勝が領地なりしも知べからず、寛永十六年(1639年)川越城を松平伊豆守信綱に賜りし時、此地も信綱が領知に属せすが、其後領主所替ありて米津才兵衛が知行となり、幾程もなく又御料所に復し、其後今の領主松平大和守が領知と、小笠原政次郎・村越伯耆守・小野直次郎・田村庄三郎等が知行と入会となる、此内小笠原が知行は天正十八年(1590年)先祖太郎左衛門に賜はりし所にて、村越のは寛永(1624年〜1644年)頃清次郎に賜はりしを、茂助が時大三郎に配当せになり、又小野が采邑は慶長年中(1596年〜1615年)先祖主計に賜はりしを、享保年中(1716年〜1736年)上地となりて御代官都筑藤十郎が支配所となりけれど、享保八年(1723年)に小野浅之丞に賜はりしより今に至る、又田村庄三郎知行は昔は杉浦内蔵允が闕所なりしを、天和二年(1682年)田村が先祖庄左衛門に賜はりてより、今の庄三郎に至れり、検地は水帳を失ひたれば其年代詳ならず、本村の南に当り入間川新田と云新田あり、ことごとく陸田なり、享保年中(1716年〜1736年)御代官荻原源八郎新開し、明和九年(1772年)久保田十左衛門検地す、これも武蔵野新田の内にて民家なく、本村の持添にて御料所なり、

高札場

宿の中程にあり、

小名

上宿

中宿

下宿

市場

昔此所に月々二七の日に市立しが追々衰へしかば、いつの頃よりか上宿・中宿へ引移して市をなせしに、それも亦やみて今は七月十一日・十二月廿七日の両日のみ、市をなす日と定む云、

上新田

番場

子(ノ)神

根曲輪ネクルワ

寺家

鵜木

滝祇園

昔牛頭天王の社ありし所なり云、

この地小野直次郎先祖主計が屋敷跡あり、慶長の頃姑くこゝに住せし云、

群田

三の輪

立野

天道山

築地

クネの内

土人の伝へに昔新田義貞姑く滞留せし所なり云、尚徳林寺の条合せ見るべし、

石無坂

村の坤(南西)の方にあり、八王子道の内なり、ここより一町(約109.09m)ほど行ば扇町屋の宿に至る、

祇園坂

秩父道にあり、当宿より上新田へ上る所なり、 此辺に牛頭天王の社あるゆへにこの名あり、

小手指原

村内小名新田の南より、北野村の辺まで凡二里(約7.85km)ほど の間を云、今は皆陸田にて名の残れり、古戦の事実は已に郡の首に出せり、

入間川

村の西より北へ屈曲して当郡と高麗郡との界を流る、南の方黒須村より入て上奥富村に達す、川幅五六町(約545.45m〜654.55m)石川にて常には歩渡す、相伝ふ村内小名子ノ神云所の背後を昔八丁の渡と云、其川幅八町(約872.73m)ありし故かく名づけたりこゝを渡れば向ひは高麗郡広瀬村なりこれ古の鎌倉道にて木曽義仲が子志水冠者が討れし所なり、又観応二年(1351年)閏二月入間河原合戦の文書の証あり、その文にいふ、

(花押)(尊氏)
着到
朝夕新会彦太郎 光久謹申
右去観応二年(1351年)七月廿八日、自石山寺御出時、至于江州・小野・大覚寺・醍醐・八和山・佐田山・伊豆・国府御供仕畢、次於鎌倉者、去閏二月十七日武州御発向之間令御供人見原、入間河原御合戦之御供仕候条、無其隠之抽忠勤上者、下賜御判、為備末代亀鑑恐々着到如件、
観応三年(1352年)三月二日

霞川

村の坤(南西)の方を流る、黒須村より入り、村内にて入間川に合ふ、川幅三間(約5.45m)、砂利川なり、

赤間川用水

村の西にて入間川を分水す、村内及び上奥富の水田にそゝぐ、其余水とこの辺村々の悪水合して一条の川となり、川越城の北を流れ、末は伊佐沼へ落入、

八幡社

当社は元弘三年(1333年)新田左中将義貞当所出陣の時、氏の守護神なればとて勧請して、弓矢の行末を祈誓せしと云伝ふ、慶安二年(1649年)社領五石一斗余の御朱印を賜ふ、本社は宮造にて銅を以て屋根を葺き、屋根裏を始として花鳥の彫物あり荘厳いと貫く見ゆ、神体は束帯にて弓矢を探る坐像なり、又社内に太神宮・春日の二座合祀す、社の回り玉垣あり、神門を設て其内を広前とす、左右に石の燈籠ありて前に石階あり、村の鎮守、

牛頭天王社

社領三石七斗余、これも慶安二年(1649年)御朱印を賜ふ神体は木像なり、村の鎮守、例祭は六月十五日神輿を出して宿中の仮殿に移す、

八幡社

昔は今の河原の地平地にして、其所に此社ありしが何頃か、洪水に岸崩れて一円に河原となりし故、此所に移せしと云、此社木曽義仲の嫡子志水冠者義高の霊を祀りしと云、法体の姿にて円扇を探てたる像を安ず、義高が事は【東鑑】等の書にも出て、世にしる所なり、石の祠にて三面に義高が事跡を彫る、其文に呼元暦甲辰春哉、義仲男頼朝婿志水義高、遥聞於父之伏誅出鎌倉、舎走鎌形舘追兵迫而固子此、入間河原□長堀氏殺家蔵冠者首逆笑、郷民埋毀樹槻而為壇焉、外姑平政子悲己、如斯報号志水八幡也、応永洪水潰廟抜木、大凶其跡数録其偉於槻、基石之小祠以徴討古之信、永享二(1430年)庚戌之春日建也、其様近代造りしもと見えたり、

諏訪社

以上四社は成円寺持、

天神社

神体坐像なり、

橘明神社

祭神詳ならず、二社とも村持、

白山社

成円寺

天龍山薬王院と号す、新義真言宗にて郡中石井村大智寺の末、慶安二年(1649年)寺領一石の御朱印を賜ふ、後しく回禄に遭て記録を失ひ、開基の由緒を伝へず、中興開山辰慧享保十四年(1729年)二月四日寂す、本尊は大日を安置せり、

鐘楼

享保八年(1723年)の銘あり、

金比羅社

徳林寺

福聚山と号す、曹洞宗、郡中木蓮寺村瑞泉院末、開山は僧一樹存松なり、相伝ふ当寺の境内は元弘三年(1333年)武蔵野合戦の時、新田義貞本陣としてこの所に二十日許逗留せし所なりと云、【太平記】に元弘三年(1333年)五月八日義貞旗を揚、同九日武蔵国へ打越あり、次に小手指原久米川合戦の条には、鎌倉より同十日金沢武蔵守貞将大将として入間川へ向ひ、路次に両日逗留あつて十一日小手指原へ打臨み、この後しばゝ合戦ありて同十六日の一戦に義貞打勝て、敵をしたひ鎌倉まで切込し由をのす、九日より十六日までわずか八日ほどの間にて尊氏と戦ひし時のことゝせんか、夫も急卒に出たることにて二十日の久しきに至りて停留すべき事勢とも思はれず、とかく誤あるべし、遥の後小沢主税法諡自翁常清と云人、僧存松を開山として当寺を造立せり、此存松が寂せしは天文二年(1533年)十二月廿日なり、本尊釈迦の坐像傍に正観音の立像あり、これ唐土より舶来せし所なりと云、長四寸(約12.12cm)ばかり縁起の略に云、当寺は正慶二年(1333年)の兵乱に、義貞境内を本陣として二十日逗留す、其頃当所に小沢某と云ものあり、唐像の正観音を持伝ふと聞て、義貞これを拝し所の守護仏と云しによりて、当寺に安置すといへり、この縁起元文四年(1739年)に作りしのなれば、あながちに信ずべきにあらず、こゝに云る小沢某といへるは開基主税が事か、さらば天文年間(1532年〜1555年)の人にして義貞とは年代違へり、主税が子孫は今見に左平次とて村民なり、よりて按ずるに此地義貞が本陣の旧跡なりと云は、さもあるべし、かゝる故ある地なれば天文(1532年〜1555年)の頃小沢主税其地につきて草創し、開山一存を置しなるべし、

鐘楼

元禄四年(1691年)の時の住僧全嶺が銘文を彫る、其略に云、武邑之西入間郷古将営跡戦血旧地也、壕墟為平田城址、為台樹於有地有高低、往時金陽基也、中頃曹洞正宗瑞泉三葉一樹存松和尚、開闢而為観音薩埵道場焉、四嶽奔峭、斉木翁鑿者、山福聚也、賓殿繊鳳尾色、観者、寺徳林所謂勝槩不少云々、其余考証に益なければ略す、

衆寮

正観音の銅像を安ず、

慈眼寺

これも瑞泉寺末、妙智山と号す、慶安二年(1649年)寺領御朱印を賜ふ、其文に阿弥陀堂領十石とあり、本尊は正観音の坐像なり、されど之は後にさだめし本尊にて、昔の本尊は阿弥陀の立像なり、長二尺五寸(約75.76cm)、安阿弥の作なりと云、今本尊の傍に安ず、当寺は正長元年(1428年)の起立なりと云、大永年中(1521年〜1528年)僧一樹存松建立して一寺とせしより、今に至て連続す、故に姑く存松を開山とす、此存松は則徳林寺の開山なれば此僧当時住持たりしとき、かの寺地中別に一寺を建立せしにや、客殿の脊に鐘をかく、元禄十三年(1700年)総寧寺の住僧緑岩が銘文に、武州入間郡入間川村妙智山慈眼寺者、正長元戊申歳、雖起立歴星霜九十余年、従大永年中係天文歳、初開祖一樹和尚、挿草布金矣、爾来竟時世治乱有興廃、陵谷近代法務兼備、殿閣漸建、這回勧群信鋳華嶽而乞銘于予、不衆寮子ノ神社体獲黙止撰筆書と彫て、数句の銘あり、

衆寮

子ノ神社

入間川慈眼寺鰐口

神体はいかなる故にや、今多磨郡大久野村天正寺にあり云、其形は銅にて鏡の如く丸くつくりて、中央に仏像を鋳出したるものなり、元亀三年(1572年)と彫てありと云、然るに天正寺を尋ぬれど、いかゞしけん伝はらず云リ、又此社に古き鰐口をかく、其図上の如し、裏面に応永廿三年(1416年)丙午小村十三日とあり、これによれば応永年間(1394年〜1428年)、この社事に勧請ありしことしらる、

長栄寺

新義真言宗、高麗郡根岸村光明寺末、本尊千手観音を安ぜり、

薬師堂

薬師堂

村民半平が持なり、これはさままで遠からず、世に先祖清兵衛と云しもの、洞家の禅僧承天則地云ものと交り深かりしにより、彼にはかりて造立せしなり、此構の内に古碑若干たてり、其古きもの文保(1317年〜1319年)・建武(1334年〜1338年)の頃より、康永(1342年〜1345年)・明徳(1390年〜1394年)の頃までのものなり、