上奧富村(入間郡・未勘)
上奥富村は川越城より坤(南西)に当り、二里(約7.85km)を隔つ江戸よりは十二里(約47.12km)の行程なり、山田庄に属す、【北条役帳】に三田弾正少弼が領地八十貫文、入東郡上奥泉と見えたり、泉は富の誤写なるべし、村内梅宮応永年中(1394年〜1428年)鍔口銘に、入東郡奥富郷とあり、旧くより奥富といひしこと知るべし、若奥泉は別村ともいはんか、されど役帳に三木と並べ記せしさま、全く当所のことなるべく見ゆ、且かの役帳に拠ば、上下の二村に分れしも天文(1532年〜1555年)の比よりのことなるべし、村の四境東は三ッ木村にて、南入間川に及び、西は入間川の中央を界として、高麗郡柏原村に隣り、北則下奥富村なり、東西十八町(約1.96km)、南北廿三町(約2.51km)、家数百十八、陸田多くして水田少し、用水は入間川及び赤間川の水を引きれども、常に足ざるを憂とす、御入国の後寛永十二年(1635年)堀田加賀守正盛に賜はりしが、同十六年(1639年)松平伊豆守信綱が領地となれり、慶安元年(1648年)同人検地す、其後武蔵野を開墾して、しばしば新田開けしかば、明暦二年(1656年)延宝三年(1675年)再びまで検地して貢税をましたり、信綱が孫伊豆守信輝が時所替となり、松平美濃守吉保が采邑となる、其頃にも検地ありしは元禄八年(1695年)なり、宝永元年(1704年)吉保得替の後御料所となり、御代官支配す、其後寛延三年(1750年)時の御代官大野佐左衛門検地せしは、村の巽(南東)一里(約3.93km)ほど隔てし堀兼村の辺なる新墾の陸田なりと云、天明元年(1781年)に至りて松平大和守に賜はりしより、今に城付の領地に属せり、村内に往還あり、八王子の方より川越城下への道なり、入間川村より入て奥富村へ達す、道幅三間(約5.45m)なり、
高札場
村の中程にあり、
小名
西方瀧
村内梅宮は元この辺にありしが、後今の地へ移せりと、今彼社の鰐口に西方滝と彫たるを以、考ふるに応永(1394年〜1428年)の比はや此小名ありしこと知べし、
台方
山崎
入間川
村の西高麗郡の郡界を流る、入間川村より入て下奥富村に達す、川幅三町(約327.27m)許、川岸に堤を築きて水溢に備ふ、
赤間川
これも入問川村より流れ来りて、下奥富村に至る、
梅宮

勧請の年代詳ならず、されど此辺にての旧社なりと云、前にも弁ぜし如く、応永(1394年〜1428年)の頃は小名西方瀧にありしが、後今の地に移せりと、梅宮と号することは京都梅宮を遷し祀れるなりと云、されば安産を祈るに霊験ありとて、近郷の婦人子を妊むに及必祈誓し、社の下なる砂を持帰りて孕婦の枕下に置く時は、必安産す、願満るに及て又捧来りて、元の所へ置て賽するを常とす、本地十一面観音を安ず、秘仏なれば見ることを許さず、上下奥富村の惣鎮守なりといふ、
末社
稲荷社
八幡社
別当 梅宮寺

花蔵山感応院と号す、新義真言宗、石井村大智寺の門徒なり、本尊弥陀を安ず、梅宮古鰐口を蔵す、其図上の如し、この鰐口裏面は損失して、いまは表面のみ存在するなり、
瑞光寺
龍殿山成就院と号す、新義真言宗、大智寺の末なり、開山の僧詳ならず、鬼簿に第十四世広海、慶長十九年(1614年)六月十五日寂すと載たれば、古寺なこと証すべし、本尊大日を安ず、
鐘楼
鐘に寛延元年(1748年)の銘を彫れり、
観音堂
円照寺跡
村の西にあり、密寺なりしと云のみにて、其来由をつたへず、