三ッ木村(入間郡・未勘)

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三ッ木村は江戸より十里(約39.27km)の行程にして、川越城より坤(南西)の方一里半(約5.89km)を隔つ、此地中古まで茫々たる原野なりしが、正慶(1332年〜1333年)の頃北条高時禅門が徒金子和泉守国重云もの、没落して郡中金子領三ッ木村へおち来りて居住し、氏を三ッ木と改む、其後国重当所へ来りて草莽を開墾して村落をなす、故に氏を以村に名づけ三ッ木と呼べり、これより郡中に三ッ木両村ありと云、中古の戦記に三ッ木原の合戦と云は当所の事なりと云、猶下の旧跡の条合せ見るべし、【北条役帳】に三田弾正少弼が知行二十貫三ッ木と載たるは、何れの三木なるや知るべからず、正保(1644年〜1648年)の領は天羽七右衛門が御代官所と、杉浦内蔵允が知行と交れり、後ち御料の方も一旦高林弥一郎に賜はりしが、程へて再び皆御料所となれり、元禄十一年(1698年)松平美濃守吉保が領地に賜はり、幾程なく又御料に復せしより今もしかり、戸数三十七、東は青柳村にて、南は加佐志村となり、西は入間川の枝郷田中村にて、北は下奥富村なり、東西八町(約872.73m)、南北五町(約545.45m)、陸田のみなり、検地は元禄十四年(1701年)松平美濃守糺せり、

高札場

村の中央にあり、

小名

大門先

村の西を云、昔大袋村東陽寺は元是地にありしと云、然れば其大門先と云義なるか、されど彼寺にて伝へざることなれば、其実否を知ず、

普門寺

村の南にあり、相伝ふ高麗郡川崎村普門寺此地にありしゆへ、此地名ありといへり、

新井

村の西にあり、昔新井某なるもの此地に要害を設けて住せり、土人は是を上の城と云しと、此小名も其人の氏を以称するなり、されど其年代等凡て伝へず、

三ケ窪

村の東にあり古戦場なり、下に詳なり、

熊野七社

元禄十四年(1701年)勧請すと云、百姓の持、下二社同じ、

神明社

稲荷社

愛宕社

村民の持、

薬師堂

本尊薬師は行基の作なりと云、坐像にて長一尺二寸(約36.36cm)、これも同作なり、是等の像は三木和泉守国重が守護仏にて、元弘元年(1331年)当所へ安置せし由縁起にのす、されど国重は元弘二年(1332年)高時滅亡の後、此所に隠棲すと云時は、年代の誤なるべし、

古戦場

小名三ケ久保の辺なり、此古戦を記せしものに、三木原と見へしは此所なり、今は皆陸田となる、相伝ふ昔新田義貞鎌倉勢と屡此地にて戦ひしと、爰も武蔵野の内なればさもあるべし、記録に地名の見へしは、永享十二年(1440年)の春上杉修理大夫持朝、室町将軍義教の命を蒙りて、結城満朝を討んとせし時、満朝父子久早く打て出河越の北三木原にて上杉顕定と戦、松山城へ引籠る由上杉系図に見ゆ、又天文六年(1537年)川越の城主、上杉五郎朝定亡父朝興が遺命を奉じて、北条氏綱を亡さんと軍兵を催せしに、氏綱早く聞付て、七月十一日逆寄にして三木まで着し、先駆の兵井浪橋本多目荒川を足軽大将と定め、同十五日城兵と戦ひ、朝定が伯父左近大夫朝成を生捕て川越城没落せり、又同十五年(1546年)北条氏康川越夜軍の時も、此辺戦場となりしなるべし、今地理を検するに、此三ケ窪より東に鎌倉の古道として小径あり南の方所沢より、堀兼村にかゝり加佐志青柳の界より村内へかゝり、五町(約545.45m)許をへて奥富の内にて八王子道に合ふ、北条氏の寄せ来りしは此道なるべしと云、

旧家者勇右衛門

氏を三木と云、則当村を開闢せし和泉守国重が子孫なり、先祖は当国七党の内金子十郎家忠より出づと云、国重が事実はあらまし村の総説にいへり、天正(1573年〜1592年)の頃の先祖四郎左衛門と云しは、沢村天岑寺を開基せし人にて、天正十七年(1589年)二月朔日歿せしと云、夫より先の事は記録を失ひたれば、すべて伝を失へり、