山城村(入間郡・未勘)

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山城村は川越城より坤(南西)の方三十町(約3.27km)を隔つ、江戸よりの行程十里(約39.27km)に及べり、葛茂川庄八瀬里と云、当村慶安(1648年〜1652年)の頃までは山城新田と唱ふ、其後いつの頃よりか山城村となりしよし、同郡亀久保村名主庄右衛門が由緒書を見るに、天正年中(1573年〜1592年)北条安房守氏邦鉢形の城を落去りしとき、三上山城守も氏邦に属せし故、共に逃れ出比企郡日新村にゆき、東光寺にて文禄二年(1593年)卒せり、其子も亦山城と云ひ、亀久保村を取立、其後当村をも開墾せり、因て己が名を負せて村名とせりと、又八ツ島村も天正(1573年〜1592年)の頃三上山城守開発せりといへば、かたがた証佐とするに足れり、尚かの二村合せ見るべし、村の四境東は大袋新田に隣り、南も亦同村にて、西は大袋・藤倉の二村に接し、北も亦大袋村に及べり、東西二町半(約272.73m)、南北四町(約436.36m)余、民家二十余、陸田多く水田少し、用水は増形村の清水を引用ゆれど、引足らずしてしばしば旱損す、当村御入国の後寛永十六年(1639年)松平伊豆守に賜はり、慶安元年(1648年)則ち伊豆守検地す、又明暦三年(1657年)寛文元年武蔵野新開発せり、こゝも伊豆守糺せり、後松平美濃守にかへ賜はりしたが、其後又よりて渡辺源蔵に賜ひてより、今も其子孫玄蕃が知行所なり、

高札場

村の東にあり、

薬師堂

薬師は春日の作と云、長九寸(約27.27cm)許、村の持なり、

天王社

白山社