石井村(入間郡・未勘)

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石井村は川越城より北に当りて二里(約7.85km)を隔つ、江戸より行程十二里(約47.12km)なり、勝呂郷山田庄と呼り、村の広さ東西十四町(約1.53km)、南北十五町(約1.64km)許、四境東は赤尾村に隣り、南は塚越村にて、西は片柳村に及び、北は島田村に接せり、民家百六十余、小名宿道の左右に多く軒を並べて、商家農民打交りて居住せり、宿の通りは川越城下より上野国、或は秩父大里の方へ行く路にてこゝは駅家なり、又古への鎌倉街道と云跡、村の西方にあり、其所の小名を今は元宿と云、こゝも古へ宿駅の跡なりとぞ、然ども前後路の通りもさだかならず、田畑は等分なり、【北条役帳】に豹徳軒四十貫五百文、勝之内石井村太田大膳亮四十貫五百文、勝之内石井村と載たるはこの処なり、御入国の後は御料所の外、設楽三右衛門・神尾伊左衛門等の知行と大智寺領入会へり、其後元禄年中(1688年〜1704年)松平美濃守吉保に賜はりしが、宝永二年(1705年)上りて中島百助・松平新八郎・渡辺源蔵・田中出羽守・安藤岩之丞等の五給に分れしに、後尽く上りて御料所となりしが、又其半を割て清水殿領知に賜へり、それも寛政四年(1792年)公に上りて一円に御料所となりしを、文化八年(1811年)又別ちて松平大和守に賜はりしより今も然り、検地は元禄十二年(1699年)松平美濃守糺せり、

高札場二ヶ所

一は村の中程にあり、一は北にあり、

小名

勝呂

村の西を云、今の大智寺の辺なり、勝呂氏祖先の住し所と云、委しくは旧蹟の条、及び郷の総説郷名の条にもいたせり、

元宿

村の西方にあり、古の鎌倉路にて、此所駅場ゆへ旅店などありし跡と云、今大智寺の前なり、

下石井

当村は大村ゆへ、古村内を上下にわかち、上石井・下石井と云しも知べからず、されど今は其沙汰なく、上石井の唱もなしと云り、

柏町

東屋

宿山

下山

新町

高島

堀内

鹿島

永金

鬼橋

八島又

金剛院

鍛冶屋舗

くはんじやうじ

飯盛川

村の北方片柳村より流来り、赤尾村に達す、川幅二間(約3.64m)許り、

勝呂白山社

御朱印五石は慶安二年(1649年)賜へり、祭神菊理媛と云、村の鎮守なり、寛永十九年(1642年)再建の棟札あり、社地は墳墓の如し、高さ五間(約9.09m)許、思ふに往昔勝呂氏祖先の墳墓にてもあるか、今伝へなければ詳ならず、

末社

稲荷社

八幡社

春日社

天満宮

牛頭天王社

神職 岡野越中

社の傍に住す、塚越村勝呂雅楽が配下なり、

天神社

別当神宮寺は大智寺の門徒、天神山と号す、境内入口に貞治二年(1363年)の碑あり、

稲荷社

大智寺の持、

神明社

岡野越中の持、

六所明神社

愛宕社

宗福寺の持、

神明社三字

神明稲荷諏訪合社

稲荷社二字

弁天社

鹿島社

疱瘡神社

以上の十社、凡て村民の持、

大智寺

新義真言宗、山城国醍醐無量寿院の末、龍護山実相院と号す、寺領二十石の御朱印は慶安二年(1649年)賜はれり、過去帳に初代日教、二代日海とはあれども年月もなし、中興開山俊誉、是も慶長(1596年〜1615年)の頃住職せしとは伝ふれど、寂年もしれず中興開基は黒川丹波守平正直にて、延宝八年(1680年)五月二日に卒すとなり、伝に云此寺も中興せしまでは、御朱印もなく、微々たることなりしを、丹波守の推挙によりて、二十石の地を賜はるとなり、此黒川正直の父は左京助平正秀とて、比企郡吹塚村に居住せしが、正直召出されてより、江戸に移住し今に至る、黒川左京は則其子孫なり、正秀は慶長十四年(1609年)七月十七日卒す、その父左京亮正忠は奥州の住人なりしが、永禄年間(1558年〜1570年)に故あつて吹塚村に来り住し、慶長十三年(1608年)四月廿三日卒す、是より此寺を菩提所とすと寺記も伝へしかど、享保中(1716年〜1736年)火災にかゝり烏有となれり、思ふに此寺地は勝呂氏の祖先居住の趾にてはなきか、夫より後堀ノ内に豊前守などは住しなるべし境内のさまいかにも古蹟と思はれざれど、是らのことは口碑にも伝はらず、豊前守の事蹟は末に出す、本尊大日を安ず、

鐘楼

鐘は安永八年(1779年)の鋳造なり、

文殊堂

坐像一尺(約30.30cm)許、毘首羯磨の作と云、

青龍権現社

稲荷社

塔頭 福正寺

宗福寺

寺領十石、慶安二年(1649年)よりの御朱印なり、其文に石井村宗福寺阿弥陀堂領とあり、禅宗曹洞派、龍ヶ谷龍穏寺末、毘盧山源光院と号す、開山教覚文和五年(1356年)七月廿八日示寂すと云、境内に碑あり、是を開山の碑と伝ふれど、三回忌追薦の碑なり、示寂の伝齟齬せり、然らば五年(1356年)の寂か其碑漫滅して読得ざれども、其見ゆる所は相当奉仏弟子教覚三回忌、文和五年(1356年)の文字明かなり、又開基勝呂豊前守と伝ふれど、卒年もしらず、塚越村住吉神職勝呂雅楽の伝へに、豊前守は永禄の頃此地に住し、小田原北条に属し、北条没落の後上総国久留里に移り、里見家に仕へたりと、されば豊前守は中興開基なるか、御打入の後の開基を神谷弥五助と云、寛永元年(1624年)五月四日卒す、即境内に墓碑あり、寺記に此弥五助は勝呂郷七ヶ村、其外相模国小机領十八ヶ村の地領たりしと、是は疑しきことなり、殊に小机領は武州なり、慶長(1596年〜1615年)の頃御代官に神谷弥五郎と云者ありて、都筑郡の村々を支配せしことものに見えたり、此等の誤にてはなきか、中興開山の僧は大宝徴公、慶長十二年(1607年)八月十四日示寂す、本尊弥陀坐像一尺五寸(約45.45cm)、恵心の作、この外地蔵の像あり、是を運慶の作と云、境内に康平二年(1059年)五月三日観応二年(1351年)十月と彫たる古碑あり、又延徳二年(1490年)七月十四日妙全禅尼とえるもあり、

鐘楼

元文年中(1736年〜1741年)の鐘をかく、

白山稲荷合社

光袋寺

大智寺門徒なり、石燈山と号す、本尊弥陀を安ず、境内に康永三年(1344年)甲申十二月と記せる古碑あり、

真観寺

宝林山と号す、本尊十一面観音を安ず、

太子堂

観音寺

二寺ともに大智寺門徒、熊野山と号す、本尊正観音を安ず、

熊野社

豊前守、当所に住せし時の屋舗の鎮守と云、

天神社

稲荷社

勝呂豊前守屋敷跡

小名堀之内にあり、観音寺の辺より宗福寺の後までを云、豊前守が事蹟は詳ならざれども、塚越村の神職勝呂雅楽が物語に、豊前守は永禄(1558年〜1570年)の頃此所に住し、小田原北条に属せしが、北条没落の後、上総国久留里へ行き、里見家に仕ふ、其後里見も廃家となりしかば、やがて浪人して幾程なく卒すとなり、前の大智寺の条にも云ふ如く、勝呂氏祖先の住し所は大智寺の辺にて、其後いつの頃にや、此堀之内に居を移せしなるべし、七党系図に兵衛尉家恒が子に須黒太郎恒高と云ものあり、是【東鑑】に載る所の須黒兵衛太郎がことにて、永久の乱(承久の乱?1221年)に討死せし由見ゆ、恒高の子須黒左衛門頼高なり、家恒の二男右馬允直家直家の子二人あり、長男を直忠と云、直忠の子左衛門尉行直この行直を一に頼高の子ともせり、直忠の弟国家とあり、又家恒の三男左衛門尉家時、家時の子太郎安家と見ゆ、又塚越村住吉社に永享元年(1429年)の棟札あり、それにしるして大宮司前因幡守勝重真と云もの見ゆ、是かの雅楽が祖先なるべければ、古くより神職たることしらる、是に拠ばこの豊前守は、自ら別に分れし家なりと見ゆ、