片柳村(入間郡・未勘)

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片柳カタヤナギ村は川越城より乾(北西)の方にて、里程は二里(約7.85km)余を隔てり、勝呂郷に属す、東西三町(約327.27m)、南北八町(約872.73m)程、民戸七十五軒、四境東は石井村に隣り、南は片柳新田及び坂戸村にて、坤(南西)より西も坂戸・戸口の二村に続き、北は吉田村に界ひ、又越辺川を隔てゝ比企郡田木村に交れり、江戸より行程前村に同じ、水陸の田等分川そひの村にて用水は越辺川の分水を引来れり、動もすれば水損あり、爰も御入国の時横田甚右衛門に賜り、正保(1644年〜1648年)の頃は島田八左衛門知る処にして、元禄年中(1688年〜1704年)松平美濃守に賜り、同十四年(1701年)美濃守検地せり、其後上りて御料所となりしが、後又川村権七・永野佐左衛門等に賜りしに、又上り地となりて御料に復せしに、安永九年(1780年)横田筑後守に賜り、又御代官所となり、後大屋遠江守・坂部能登守・平岡美濃守等に賜はり、今は彼子孫領せり、

高札場

村の中央にあり、

小名

下吉田村

村の乾にあり、古へは隣村吉田を合せて上下に別ち唱へしが、下吉田の方は何の頃か当村に属して小名となれりと、されど正保(1644年〜1648年)の頃のものには上下を分たず、吉田村とのみ見えたれば、これより前早く下吉田は此地に属せしものなるか、猶上吉田村の条に出せり、

越辺川

村の北にあり、上吉田村より入て嶋田村へ沃げり、川幅は河原を合せて一町(約109.09m)許、又同じ辺に一条の流あり、こは田間の用とはならで悪水の堀なり、坂戸村より入、石井村に通ぜり、飯盛川と称せり、

稲荷社

村民の持なり、

飯盛明神社

当社は旧き鎮座の由伝へり、元亀年中(1570年〜1573年)三十番神を配祀すと云、休台寺の持、

休台寺

日蓮宗、房州小湊誕生寺の末、正覚山と号す、本尊三宝祖師を安ず、開山日慶天正八年(1580年)八月十三日示寂、中興開基横田次郎兵衛延宝七年(1679年)正月廿三日卒す、法名正覚院一乗日熹居士と云、当寺に飯盛神社の古棟札を蔵せしが、何の頃か失へる由、過去帳の端に写を残せり、其あらまし当所の地頭松山の旗下、恒岡入道大林軒道会日勢といへる人、三十番神を勧請せりと、又武州入西郡の内片柳郷長柳山妙慶寺日慶上人の勧請也、相州鎌倉比企ヶ谷妙本寺住本行院日慶、元亀二年(1571年)辛未九月廿三日とあり、是をもて考れば往古は山号・寺号も今とは違ひしに、延宝年中(1673年〜1681年)中興開基横田氏の法諡を取て山号とし、其おりから寺号も改めしものなるべし、文中松山の旗下と記せるによれば、松山は則比企郡松山にて、彼恒岡大林軒と云人、もしくは松山城主上田氏の臣に恒岡氏ありてそれ等をさすにや、いまだつまびらかなるを知ず、

祖師堂

此堂は元毘沙門堂にて毘沙門を安ぜしに、近き頃傍に日蓮の像を並べ置しかば、今は祖師堂とのみ称せり、堂の傍に元亀二年(1571年)の古碑一基あり、

鐘楼

宝永五年(1708年)十一月の銘を彫し鐘を掛たり、