坂戸村(入間郡・未勘)
坂戸村は川越城より西方三里(約11.78km)を隔て、江戸よりは十三里(約51.05km)の行程なり、勝呂郷浅羽庄に属せり、村名の起りを尋るに康平(1058年〜1065年)の頃、坂戸判官教明1といへる人住せしより始れる由を云と、坂戸教明のこと拠とすべき記録なければ、今よりは考べからず、村の四境東は片柳村に接し、南も同村及び関間・藤金の両新田、高麗郡臑折村に隣れり、西は粟生田・下浅羽の二村にて、北は上吉田・戸口の二村に交れり、東西二十町(約2.18km)、南北十町(約1.09km)許、村の中央に一条の往来あり、下浅羽村より入吉田村へ通ぜり、多磨郡八王子より日光への街道にて、千人同心往来の馬次なり、道幅二間半(約4.55m)左右に民戸百八十余軒を連たり、此地昔は小田原及び八王子の二城より鉢形、或は上州厩橋へ往来の原なりしを、今小名に残れる坂戸の地より、百姓三十九軒を天正十二年(1584年)大道寺駿河守爰へ移して新に駅を開けり、其後御打入ありて、天正十八年(1590年)島田次兵衛重次に此地を賜ひ彼が知行となりしが、其頃近在の民等爰に来て市を立べき由を触しかば、比企郡松山の浪人戸倉甚八・井上内蔵助・吉沢主水など云者を始として、近きあたりより馳集て追々家居をなし、今の如く駅とはなれりと云、是土人の旧記に載たり、この街道東の出口より南へ折たる一条の路を開く、これ比企郡川島領へ往来の路なり、又街道の中程より南へ行の小径は川越へ通ずるの道なり、此村陸田多く用水は粟生田村より引来れり、村民農業の暇には絹紬の類を紡織し、当所の市へ持出て生産の資をなせり、検地は天正十八年(1590年)島田次兵衛、承応三年(1654年)に至り島田出雲守等が改めしことあり、夫より前弘治(1555年〜1558年)・永禄(1558年〜1570年)・元亀(1570年〜1573年)及び天正(1573年〜1592年)の初までは北条の家人、大道寺駿河守が領分なり、御入国の後彼島田次兵衛重次に賜り、正保年中(1644年〜1648年)は島田久太郎・同庄五郎等の知行に、永源寺領交れる由ものに見えたり、夫より引続元禄七年(1694年)までは島田氏の采地なりしに此年松平美濃守に賜ひ、夫も宝永元年(1704年)上り地となり、又秋元但馬守へ賜り、明和五年(1768年)に至りて松平大和守の領分となれり、
高札場
宿の中程にあり、
小名
上宿
南方なり、これより次第に北に続きて四丁目に及べり、
元坂戸
艮の方なり、往昔は此処居村なりしを、大道寺駿河守今の宿へ引移し、跡をば新田となし、元坂戸町の名を命ぜるよし、村名の条にも弁ぜしなり、
高麗川
村の西北の方にあり、粟生田村より入、上吉田村へ通ぜり、
山田川
村内の用水なり、高麗郡臑折村内雷神池より流出、当村に入、隣村片柳村へ沃げり、川幅九尺(約2.73m)、
天神社
嶋田某此地に住せし時は、屋布の鎮守なりし由、其因をもて社の修理は今も領主より加へりなど云り、
白髭社
村の鎮守にて、常福寺の持、
諏訪社
正蔵寺の持、
王子権現社
村持、
牛頭天王社
常福寺の持、
山王社
村持、
白山社
当社免田の内に八軒あり、何れも江戸浅草の手に属せるものにて、其内の小頭源蔵といへるものゝ家に、武田信玄より与へしとて文書一通を蔵す、其故を尋るに元は、今の宿の東比企郡へ行道の傍に住せしに天正中(1573年〜1592年)信玄鎌倉より古河へ往来の時、道にて馬具の損せしを源蔵の先祖修理せしにより与へしと云、文書の写を左にのす、
定
向後、御細工之奉公、可致勤仕之由、言上之間、郷次々御普請役有御赦免者也、仍如件、
天正五年(1577年)六月廿一日
跡部大炊助奉之
六右衛門
按に天正五年(1577年)の文書をもて信玄より賜ひしと云、且この頃信玄鎌倉より下総国古河へ通りしといへど、信玄は天正元年(1573年)に卒せしを、如此云は理り弁ずるを用ひず、それのみならず、このをりふしは大道寺駿河守の領せし地なれば、武田氏より謾に普請役赦免あるべしとも思はれず、彼鎌倉より古河へ通りしと云は、勝頼を伝へ誤りしならんか、されどこの頃此辺を過りしと云ことは他に所見なし、思ふに甲斐国よリ移住せしものにて、かの国にありしときのことなるべしといへり、
永源寺
曹洞宗、越生龍穏寺の末、長渓山と号す、天正十八年(1590年)嶋田次兵衛重次当村を賜りし後、慶長十二年(1607年)重次の父左京亮某三河国より爰へ引移し、己が菩提所となしたれば、是を当寺の開基とせり、此人は慶長十八年(1613年)五月十五日卒す、法名源翁永源庵主、開山は本山十四世大鐘良賀、慶長十九年(1614年)正月廿八日寂せり、後寛文二年(1662年)丙丁の災(火災)に罹りしを、明る三年(1663年)嶋田出雲守再興せしと云り、寺領は坂戸郷の内新田、二十四石を、慶長十八年(1613年)台徳院殿(徳川秀忠)より賜はれりと云、
表門
裏門
この門は慶長年中(1596年〜1615年)佐竹左京大夫、当寺へ来りしことありしに、其時嶋田某俄に建しとて土人佐竹門と云り、佐竹氏の来りしゆえんは知ず、
楼門
楼上に撞鐘をかく、延宝八年(1680年)の銘を彫る、
本堂
本尊釈迦を安ず、
衆寮
虚空蔵を置り、
観音堂
七観音を安ぜり、
金比羅秋葉合社
白山社
常福寺
新義真言宗、石井村大智寺の末、白髭山と号す、文明十二年(1480年)の建立なりと伝るのみにて、開山開基の名は伝へず、本尊は大日を安ぜり、
正蔵寺
前と同寺の門徒、天神山と号す、土人の話に慶長四年(1599年)の建立と伝ふ、本尊は不動を安ぜり、
薬師堂
本尊薬師は木の立像にて、胎中に長二尺(約60.61cm)許の薬師を納る、こは坂戸判官教明と云し者守り本尊なりしを、康平六年(1063年)に此処へ安置せしとのみ伝へて、この外のことは詳ならず、
常泉寺跡
村の南小名道願山にあり、往古坂戸判官教明の開基なりしに、しばしば兵火の為に烏有となりし後は廃寺となる、
脚注
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源義家の東奥七騎の一人坂戸判官則明のことか?(http://bud.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/ss12604.pdf?file_id=4667) に坂戸判官則明の解説あり。 [戻る]