四日市場村(入間郡・未勘)

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四日市場村は川越城より三里(約11.78km)を隔てゝ乾(北西)の方に当れり、江戸より行程十三里(約51.05km)、浅羽郷高麗郡に属し、村名は往古此処に於て、月毎に四の日を以て市を立しゆへ起れる由、隣村市場も中古までは九の日に市を立しゆへ、九日市場村と唱へしなど云、郡内川角村に蔵する慶長十七年(1612年)の水帳に、入西郡川角之内九日市場と載たり、此をもて見れば往昔は当村及び川角村内を合せ、四九の日に市をなせしことなるべし、村内に鎌倉古街道の蹟の残れるさま、いかにもにぎはへる地にて、彼二村を合せ六次の市ありし類しるべし、村の四境、東は鎌倉の古街道を隔て森戸村に境ひ、南は高麗郡町屋村及び郡内駒寺新田に接し、西は高麗郡上田波目村に交り、北へ高麗川を隔てゝ下河原・市場の二村に隣れり、東西へ六町(約654.55m)許、南北四町(約436.36m)に余れり、民戸五十、田畑等分用水は高麗川の水を引来れり、当村旧きことは伝へず、御入国の後文禄(1592年〜1596年)・慶長(1596年〜1615年)の頃は伊丹播磨守知行せしを、寛永三年(1626年)上りて御料所となり、いくほどなく正保(1644年〜1648年)の頃は小倉孫助・藤掛六郎右衛門知行所となりしに、後藤掛某は外の地に替賜り、小倉氏一円に知る処となり、元禄年中(1688年〜1704年)時の地頭小倉孫太郎検地せしことあり、夫より引続き今も小倉孫十郎知る所なり、

高札場

村の西にあり、

小名

玄蕃分

乾(北西)にあり、案に【北条役帳】に冊五貫文河越筋森戸久米玄蕃と載たり、この森戸は隣村のことなり、となれば、このあたりは永禄(1558年〜1570年)の頃彼森戸の地に属し、久米玄蕃なるものゝ居迹なりしや、されば今も小名にのぼれるならん、

鳥居戸

東にあり、隣村森戸にある熊野社の鳥居、古へは此処にありし故、今もこの小名ありと云、

高麗川

田波目村より入、北の方を屈曲して流れ、東方森戸村に沃げり、川幅五六十間(約90.91m〜109.09m)、此川元は今の処より少しく東により、諏訪社の下を流れしに、洪水のおりから変遷して、今の処へ移りしより、本流却て古川となる、

諏訪社

当所の鎮守なり、寛永十一年(1634年)甲戌九月廿九日と彫りたる鰐口を掛たり、村内の旧家甚右衛門の祖先某、大永四年(1524年)九月廿九日此社を鎮座せり、村内観音寺の持、

稲荷社

是も大永五年(1525年)九月廿八日甚右衛門が勧請なり、村持、

天神社

観音寺の持、

観音寺

新義真言宗、高麗郡新堀村聖天院の末、観音堂領五石の御朱印は慶安二年(1649年)に賜へり、本尊不動を客殿に安、

観音堂

本尊千手観音を安ず、旧家甚右衛門が載せる記録に、彼が先祖甚右衛門大永年中(1521年〜1528年)千手観音を、己が宅地の内に建立し、其堂を守るものを付置しを、のち一寺となし観音寺と唱へ始めし云、

旧家者甚右衛門

氏を小鹿野と云、代々此村の名主役を勤む、先祖は仁木民部少輔房悦十一代の孫青木順阿より出、順阿は甲斐国巨摩郡青木村に住せしゆへ、氏を青木と唱へ、其子深右衛門将忠も其処在て、青木を称せしに、将忠が子深右衛門将次の時、当国秩父郡小鹿野村に移りしより、今の氏に改め大永四年(1524年)八月更に当所へ転じ、元亀三年(1572年)死せりと云、今按に甲国巨摩郡青木村に住せし源八時信が子に、十郎時光と云もの有て、此人始て青木氏に改め、其子十郎太郎経光と称せしこと、其地にて伝ふる由ものに見えたり、もし順阿はこの時光が法号などにや、されど時光が子を、十郎太郎経光と称せしと解せば是も家伝と違へり、又昔は家系も所持武器など多く蔵せしかど、正保年中(1644年〜1648年)己が家火を失して、それらのもの皆灰燼となり、纔に刀三振を伝ふと云、其一は長一尺(約30.30cm)、中心三寸(約9.09cm)許、来国俊の銘あり、一は長一尺五六寸(約45.45cm〜48.48cm)なり、広次の二字を銘す、一は無銘にして長二尺三寸(約69.70cm)許、志津兼氏が作と云、