大谷木村(入間郡・未勘)
大谷木村は川越城よりの行程、及び江戸への里数等前村に同じ、高麗領に属す、村の四方、東は葛貫・長瀬の二村に隣り、南は宿谷・権現堂の二村に境ひ、西は高麗郡虎秀及び当郡阿諏訪の二村にして、北は又長瀬・小田谷の二村なり、東西一里(約3.93km)余、南北は僅に八九町(約872.73m〜981.82m)に過ず、其間西方はなべて山々のつづき、東方は少しく平地なれども、高低の所交れり、畑多く田少く、用水不便なれば天水を貯へ、或は村内の小流を引て、水田に沃げども旱損あり、御入国の頃より久しく御料所なりしが、宝暦十三年(1763年)酒井備中守に賜りしより、今も子孫主殿の知行なり、
高札場
村の東にあり、
小名
片瀬
権現山
石原谷戸
小池
たかさき
菖蒲ヶ谷
岩沢
飯森山
上り六七町(約654.55m〜763.64m)、其形飯を盛たる様なれば名付けたり、
谷ッ川
村内菖蒲谷より流れ出、隣村長瀬村に入れり、石川なり、
秣場
村の西方にあり、十五万坪(約49.59ha)余の地なり、小田谷・長瀬・前久保・馬場五村入会の秣場なり、
八幡社
御朱印社領四石は慶安二年(1649年)始て賜はれり、村内の鎮守、宝福寺の持、
箱根権現社
村民の持、
妹脊明神社
祭神及び勧請の年月を伝へず、下同じ、
鎌北権現社
宝福寺
新義真言宗、今市村法恩寺門徒、沢谷山光明院と号す、寺昔は葛貫村にありしよし、葛貫村内小名大石仏に嘉元四年(1306年)の古碑あり、此外大寺下大寺など云る小名も残りたれば、いかさまそこにありし寺院なりしなるべけれど、こゝへ移りしは何の頃なりしや考べからず、彼小名をもて考れば、昔は大寺なりしも知るべからずと土人は云り、本尊不動を安ず、
観音堂
![[表]奉懇正観音鰐口 武州入間郡岩沢村長福寺 [裏]大永三年(1523年)癸未三月吉日 大工越〇 施主栄厳敬白](/_astro/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E6%9C%A8%E6%9D%91-%E9%B0%90%E5%8F%A3.Dd56It7U_Z1VcWqe.webp)
正観音を安ず、雨乞観音ともいへり、其所以をしらず、浄覚院の持、此堂は古長福寺と云一寺なりしに、嘉暦二年(1327年)足利尊氏再興し、夫より後天文二年(1533年)焼失して廃寺となりしを、寛文四年(1664年)浄覚院又再興せしなと伝れど拠はなし、近き比境内土中より掘得たりとて、鰐口一口を浄覚院に納む、口に彫たる年月及び村名をもて考れば、大永(1521年〜1528年)の初は此村に移り、今の小名岩沢の辺にありて、其頃までは長福寺と号せしなるべければ、此後天文中(1532年〜1555年)丙丁(火災)にかゝりしより、廃寺となりしも知るべからず、その鰐口は上に図す、
浄覚院
観音堂の傍にて、則観音免の内に居り、雨乞山観音寺と号す、本山修験、雨戸村山本坊の配下、当寺の来由を尋るに、承久年中(1219年〜1222年)住谷実勝と云るもの、此地へ来りて農民となり、子孫某が時嘉元二年(1304年)修験となりなど伝へり、住谷某なる者は元より聞ことなし、されどこゝに伝る所の如くならんには、修験となりしも旧きことなるべし、
五輪塔一基
坤(南西)の方に村民の持とせる山あり、上り三四町(約327.27m〜436.36m)を経し、松林の中に立り、墓石の正面に、大和守入道法円願主帰迎禅門詰衆十六人と記し、三方に経文を彫り、末に延文五年(1360年)十一月廿日敬白とあり、大和入道が事歴未だ考へず、
旧家者与兵衛
村の名主なり、大谷木を氏とす、系図は伝へずれど、今旗下の士大谷木吉之丞、及百人組の与力大谷木五郎右衛門等は、此家より出し者なりといへば、古き家なり、されど此家何の頃か一度廃せしことありにし、其時旧記録武器をば、彼五郎右衛門に預けたりとて今は伝へず、唯毛呂土佐守が由緒を書したもの、及諸家より贈りし文書等を蔵す、案に郡中小田谷村長栄寺に、毛呂系図一軸あり、其譜及彼由緒書を合せる見るに、大谷木氏は毛呂豊後守藤原秀光が流なり、秀光の孫毛呂佐渡守秋重に二子あり、長を土佐守顕秀と云、則長栄寺の開基にて、毛呂本郷に住せり、次越後守秋綱と云、当村に住して大谷木を氏とす、秋綱が子在大谷木三河秋純と云、其子与兵衛末昭と云者あり、是今の与兵衛が先なるべし、彼毛呂氏のことは【東鑑】等にも見ゆ、前にいへる由緒書は、郡内毛呂本郷へ出したれば、合せる見るべし、