宿谷村(入間郡・未勘)

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宿谷シュクヤ村は郡の西端にて高麗郡に界ひ、川越城より西方四里(約15.71km)に当れり、江戸より行程十四里(約54.98km)、宿谷庄と唱ふ、村名の起りを尋るに、村民権左衛門が先祖宿谷太郎行俊なるもの、隣村葛貫に住して当村を開発すと云り、彼権左衛門が家に蔵せる宿谷氏の系譜を見るに、行俊が孫次郎左衛門重氏は、頼朝頼家実朝等に仕るとあれば、開発の年歴大抵推て知べし、村の四境、東は高麗郡平沢・新堀の二村に隣り、南は同郡元宿村に界ひ、西は郡中権現堂村にて、北は大谷木村なり、東西十四五町(約1.53km〜1.64km)、南北十一町(約1.20km)、村内すべて山間幽谷の地にて、陸田多く水田は少し、専ら天水を仰で用水となせば、しばしば旱損す、此村古くより御料所にて、寛文八年(1668年)御代官坪井次右衛門検地せり、其後安永九年(1780年)雨宮十兵衛に賜り、夫より引続き今も子孫鉄之丞が知る所なり、民家僅に十三、

高札場

村の東にあり、

小名

粕入

粕坂

横峰

信多滝の図

西南の渓間にあり、信多滝と云、水元は権現堂村境小名久保より出、村内にては居村より細流にそひ、五町(約545.45m)許の地をへて滝壺に至れり、其間道の左右には巌石をもて塁める如き山々連れり、細流の両辺にはいときよらかなる砂礫をふめるさま、夏日も爰に至れば炎熱を忘るなど土人いへり、滝壺の辺はいと闇く、日の光さへ見えず、滝の高さは十間(約18.18m)、幅は僅に一尺(約30.30cm)余、落口は両岸峙ち樹木生ひ茂り、幽邃いふばかりなく、景色愛すべきの地なり、滝の下流は東の方へ沃ぐ、高麗郡平沢村と本郡田波目村との間、境淵と字する所にて、高麗川へ落入れり、滝に向て右に権現堂村へ行く山道を開けり、巌石或は葛を便りて攀上る所あり、又向て左方に山あり、山腹に不動の堂あり、

不動堂

山腹滝に傍て立り、開基は妙覚院の開山祐円なり、この僧の時代をしらざれば、堂を草創せし年歴も知べからず、元は滝壺の傍にありしを、万治三年(1660年)の秋洪水の爲に廃せしかば、元禄十一年(1698年)今の処へ再興せしと云ふ、妙覚院の持なりと云ふ、

白山社

村の鎮守にて、村民の持なり、

妙覚院

本山派の修験、高麗郡篠井観音堂の配下、滝峰山金剛寺と号す、本尊不動を安ず、開山は祐円とのみ伝へ、寂年は失へり、

旧家者権左衛門

氏を宿谷と称す、相伝ふ先祖は当国七党の一児玉惟行の第四子太郎経行に出、経行が四代の孫太郎行俊此地に来り住せり、是当所宿谷氏の祖也、夫より四代の後宿谷太郎左衛門重氏、鎌倉右大将家に仕へしに、和田義盛当盛の事に座して仕を止られ、やがて剃髪して不染入道と号し、遁世して当国に下り住しが、後召れて再び頼経に仕ふ、其子左衛門行時も将軍家に仕へたりしに、世かはりて宗尊親王に仕へ、其子二郎左衛門光則〔案に【鎌倉志】に光則寺は、大仏へ行道の左にあり、此処を宿谷とも云、相伝ふ平時頼家臣、宿屋左衛門光則入道西信が宅地なり、昔日蓮龍口にて首の座に及ぶ時、弟子日朗・日心二人、檀那四条金吾父子を、光則に預け給ひ、土籠に入らると、是によれば親王家に仕へしと云は疑ふべし、〕光則の子、三郎行岩、行岩の子三郎行性まで親王家に奉仕し、行性の子四郎重顕より将軍尊氏に仕へ、其子興市儀重に至て、武蔵相模の内にて知行七千町(約69.42㎢)の地を領し、将軍義詮義満に従ひて、応永(1394年〜1428年)の頃泉州に於て、大内義弘と戦ひてしばしば軍功あり、其後子孫世々将軍家に仕へたりしに、儀重七代の孫近江守重近の時より、小田原北条家に属し、其子大和守重則天正年中(1573年〜1592年)、氏直より当国入間郡の内宿谷・権現堂・葛貫・市場・下川原・大久保・熱川・女影八ヶ村所領の書出を与へられしと云、北条氏没落の後は、郷士となりしにや詳ならず、重則より四代の後、権左衛門重本大猷院殿に仕へ奉りて、後宿谷に住居し、寛文十年(1670年)十二月廿四日五十五歳にて死とあり、按に或書に宿谷源右衛門尹行は七百石を知行せしに、享保三年(1718年)四月六日罪有て領知を召上られしと見ゆ、是恐くは重本が子孫にして、この時断家となりしならん、