川角村(入間郡・未勘)
川角村は川越城より乾(北西)の方三里半(約13.75km)を隔つ、江戸より行程十四里(約54.98km)、浅羽郷松山領と唱へり、村の四境、東は大類・大久保の両村にて、南は市場・長瀬の二村に及び、西は前久保・馬場の二村に交り、北は越辺川を隔て西戸村及び比企郡今宿及び郡内苦林に対せり、東西凡十五町(約1.64km)、南北へ十町(約1.09km)に余れり、民戸は後に出せる玉林寺村をすべて八十九軒、畑多く田少く、用水は大谷木川を分水して沃けども旱損多し、当村御入国の後内藤式部が知行なりしに、程なく寛永年中(1624年〜1644年)より御料所となり、寛文二年(1662年)御代官天羽七右衛門検地す、元禄十七年(1704年)三月地を割て木下伊賀守に賜はり、其余は猶御料の地となりしを、何の頃か西尾藤四郎に賜はり、今は木下求馬・西尾藤四郎が知行なり、
高札場
村の東にあり、
小名
崇徳寺
村の艮(北東)の方にあり、往古鎌倉街道ありし時、崇徳寺といへる寺ありし故小名となれり、彼寺蹟も残りて、そこに長さ九尺(約2.73m)、横二尺五寸(約75.76cm)の古碑一基あり、碑面に延慶第三暦仲春仲旬(1310年2月中旬)、奉興立趣意者、為大檀那沙弥並朝妻氏女など見ゆ、この外にも文字あれど漫滅して読べからず、今按に郡内善能寺村、金毘羅縁起に、善応寺は昔崇徳院と号して、苦林村に建立せしを、貞治年中(1362年〜1368年)鎌倉管領基氏、芳賀伊賀守と戦争の時、兵火にかゝりて烏有となりしかば、後年今の地に移せしとあり、是当所のことにして、其比は此辺なべて苦林野の内なりしなるべし、こゝに小径一条あり、苦林村より入、大久保村へ通ず、是則鎌倉の古街道なり、
六本松
堂山
をひの宮
吹上町
龍尾
阿弥陀堂
堀之内
神田
竹ノ内
越辺川
村の北にあり、乾(北西)の方西戸村より入り、苦林村に至、川幅五十間(約90.91m)、
大谷木川
前久保村より入て、流末は越辺川に合す、
板橋
長八間(約14.55m)、大谷川の内坂戸道に架す、
八幡社
天照大神春日明神を相殿とせり、社領五石五斗の御朱印は、慶安二年(1649年)に賜ひし由を云へど、小名に神田の名あり、もし当社の領地を唱へしならんには、旧くより社領ありしこと推て知べし、南蔵寺の持、
南蔵寺
新義真言宗、今市村法恩寺の末、金剛山地蔵院と称す、前住英純今法流開山と定む、本尊薬師は銅立像にて、長一尺(約30.30cm)余、天竺渡来の像なりと云、
古碑
延文三年(1358年)十二月十日と彫せり、
浄光寺
曹洞宗、龍ヶ谷村龍穏寺の末、雨聚山と号す、当寺の起立を尋るに、応永三年(1396年)当所の人小室永源入道重吉と云もの、堂一宇を建立して薬師を安置す、其後永禄(1558年〜1570年)の頃、本山十世の僧善庵が時、一寺とせしゆへ、今是を開山とす、此僧は天正五年(1577年)二月廿九日寂せり、本尊は彼薬師にて湛慶の作なり、慶安二年(1649年)の御朱印に、薬師免五石二斗とあり、
天神社
旧家者孫太夫
木下求馬が采地の名主なり、小室を氏とす、先祖永源入道重吉は、則前に云ごとく浄光寺を起立せし人なり、これより子孫世々こゝに住すと云、按に村内に堀ノ内及馬場など云処あり、こゝに限らず堀ノ内と云は、多くは人の住し処なり、さればこゝも彼重吉が居蹟などにや、馬場と云も永源が馬を習はせし処なるか、これ土人の口碑に伝ふる所にもあらざれど、姑く考を記せり、