成願寺村(入間郡・未勘)

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成願寺村も河越城より乾(北西)に当れり、江戸よりの行程等前に同じ、松山庄に属す、村名の起りを尋るに、往古鎌倉建長寺三世剣峰国師来て、今の成願寺を草創せし時、この村も同時に開し故、寺号をもて村名となせりと云、東は大塚村に境ひ、南は高麗川を距てゝ厚川村に隣り、西は大久保・欠野上の二村に接し、北は堀籠村に交れり、東西南北共に凡五町(約545.45m)、水田少く陸田多し、用水は大塚村の余水を引来れり、民戸二十五、此地御入国の後正保中(1644年〜1648年)は三浦庄兵衛の采地なりし後、上りて高林弥一郎が知る処となりし年歴は詳ならざれど、延宝五年(1677年)時の地頭高林弥一郎検地せしといへば、この以前高林に賜ひしなるべし、今はそれも変りて田安殿の領分となれり、

高札場

村の南にあり、

小名

小塚

古はこゝに塚ありしゆへ、隣村大塚に対して名とす、

毛呂分

郡内毛呂郷に住し、毛呂一族など領せし事ありて、かく唱るも知べからず、

中河原

南方を云、高麗川中の瀬ありし処をいへり、正保二年(1645年)三浦庄兵衛の記せしものに、南川横三十間(約54.55m)程、步行渡と載たるは、則高麗川のことなりと土人いへば、正保(1644年〜1648年)の後川の瀬変遷せしことしらる、この川今は厚川村に係れり、

半在家

くす川窪

欠之下

葛川

村の北にあり、大久保村より入、峯村に沃げり、

稲荷社

成願寺の持、

成願寺

曹洞宗、田波目村恵源寺の末、無量山と号す、昔は臨済派にて、開山は鎌倉建長寺の第三世、剣峰国師無量成願とのみ伝ふ、按に剣峰国師と云は、僧伝に見所なし、禅林僧伝に広智国師乾峰和尚あり、其行状の略云、乾峰諱は士曇、又少曇と称し、筑前国博多の人なり、文和(1352年〜1356年)の頃建長・円覚の二寺を兼領すとあり、もし此乾峰和尚を訛伝して、剣峰国師とは云しにあらずや、殊に乾峰が母、初め筑前志賀島の鎮守に参籠して、賢子を祈りし時、夢中に文殊菩薩剣を抜て、其心を割と見て娠すとのすれば、乾峰は剣字の音通の如く聞えたり、然れば剣峰と伝ふるも其故なきにあらず、乾峰和尚は康安元年(1361年)寂せし人なれば、もし此人ならんには、当寺の古刹なることしらる、又寺伝に云、当寺草創の初はいとも勝れたる伽藍なりしが、漸く衰へ果は纔なる庵室のさまとなりしを、文禄元年(1592年)本山恵源寺第三世の住僧、朝谷是暾中興して堂舎再び見るべくなれり、済派の洞派となりしはこの時にて、かの僧は慶長七年(1602年)十一月二十四日示寂す、本尊薬師を安ず、

旧家者平三郎

先祖を沢田和泉守と称す、成願寺の開闢の時、開山剣峰と同く、相州よりこの地に遷て村を開墾せしと云、それより子孫連綿して今の平三郎に至るとぞ、