苦林村(入間郡・未勘)

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苦林ニガバヤシ村は河越城より乾(北西)の方三里(約11.78km)を隔てり、江戸よりは十三里(約51.05km)の行程なり、抑苦林の地名は【太平記】等の書にも見えて、古き唱なることは論なし、そのかみは苦林野と号して、玉林寺村古戦場の条にも弁せし如く、いと広き原野なりとはいへど、その界域は後世変革もあるべし、とかく当村はその名残ならん、今村西に鎌倉古街道かゝり、西戸村より入て大類村に達す、昔の宿駅は将軍沢大類女影と続きて、当村は其間にありし原野なりと云伝ふ、されば昔苦林の村落はいづれの地なりや、今より考べからず、村の四境の大様は東西の径り八町(約872.73m)、南北六町(約654.55m)許にて東の方善応寺村に隣り、南は玉林寺・大類・川角の三村に並び、西は越辺川を隔てゝ西戸村なり、北も同じ、川の対岸比企郡今宿・赤沼の二村、及び長岡村に境へり、水田少く陸田多し、当村永禄年中(1558年〜1570年)は遠山丹波守が領せし由、【小田原役帳】に見えたり、御入国の後は御料の地となりて、其後何の頃よりか酒井小平次に賜はり、元禄六年(1693年)小平次が家にて検地すと云、今も其子孫加賀守が知る所なり、

高札場

村の中程にあり、

小名

塚原

村の南の方を云、隣村玉林寺村に塚原と呼ぶ古戦場あるをもて、其名の及びしなるべし、こゝに塚あるにはあらざるなり、

舞堂

鶴巻

鍛治ケ谷

越辺川

大類村より入、赤塚村の飛地に達す、

専念寺

新義真言宗、今市村法恩寺の門徒なり、宝蔵山と号す、本尊弥陀を安置せり、

鹿島社

村の鎮守なり、