善能寺村(入間郡・入西領)

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善能寺村は昔広沢善応と云者此地に住し、一寺を建立して善能寺と号せしが、後終に村名と成れり、能応音の近き故後にかきかへしなりと云、【北条役帳】に布施弾正左衛門が知行十九貫四百七十一文、河越三十三郷善応寺分とあり、永禄(1558年〜1570年)の頃までも応の字を用ひしこと知べし、其地は河越城より乾(北西)に当りて三里(約11.78km)を隔て、江戸より十三里(約51.05km)の行程なり、御入国の後は河村善右衛門・稲生七郎右衛門の二人に賜はりてより、其子孫等今に至りて相続し、河村善兵衛・稲生七郎右衛門知行せり、検地は元禄四年(1691年)地頭等其采地の限りを改定せしと云、村の四境東は大久保村、南は成願寺村に限り、西は川角村の内玉林寺村及び苦林村に隣り、北は長岡・小山・竹之内の三村に接せり、東西五町(約545.45m)程、南北七町(約763.64m)に余れり、民家三十余、陸田多く水田は少し、屡旱損ありと云、

高札場二ヶ所

一は村の東にあり、一は西にあり、

小名

国正寺

大河原町

三隅

塩沢

葛川

門前

塚原

村の西を云、玉林寺村の内にあり、古戦場に続たる地なり、

天神社

村の産神なり、善能寺持、

愛宕社

金毘羅を相殿とす、善能寺持、愛宕社の由緒は伝へざれど、金毘羅には縁起一巻あり、善能寺に所蔵す、其大略は下にのす、

善能寺

大龍山と号す、曹洞宗、田波目村恵源寺の末なり、当寺は村名にも称する所にして、古刹なることは論なけれども、開闢の来由其説区々にして、慥なることを知らず、或は云古済家の寺院にして、文和年中(1352年〜1356年)広沢善応入道と云者起立し、夢窓国師を請て開山とせしが、遥の後承応二年(1653年)に至りて、今の宗に改め本山四世僧本秋を開山に定むと云、其時寺号をも改て能の字に書替しと云へど、夫より先のものにも既に能の字に書しものあれば、是は後人の附推なるべし、又当寺にて管する所の金毘羅縁起を閲するに、当寺の院号を崇徳院と号し、延元二年(1337年)郡中苦林村に建立せしを、貞治年中(1362年〜1368年)に至りて鎌倉管領基氏、芳賀伊賀守と戦争の時、当宇以下兵火に罹りて烏有となれり、其後夢窓国師当国へ飛錫の時、当所に憩息し宇を胥て、一宇を起して崇徳院となづけ、彼の絶たるを継しより、又若干の星霜を経て、今の宗旨に改む、夫より第三世の僧を秋月と云、此僧恐らく当院崇徳と号すること、全く讃岐院の尊号に触ること恐なきにあらずとて、彼の院の尊霊を祀り、金毘羅社と崇め奉れり、是享保年中(1716年〜1736年)の事なりと云々、大意かくの如し、然れば善応入道が国師を開山として起立せしも全くの開闢にあらず、元苦林野の廃寺崇徳院を爰へ移して、国師を中興の初祖とせしなるか、今禅林僧伝夢窓国師塔銘序文を閲るに、国師当国飛錫の事をのせず、只正中三年(1326年)八月勢州を経歴して、善応を開山とせしことをのす、かゝることによりて、国師の開闢なる由を附会せしにあらずや、又客殿の古位牌には、開山玉芳菊和尚天正五年(1577年)八月十日寂すと記す、抑崇徳の院号の説疑なきにあらざれど、今川角村に崇徳寺跡と称する所あり、彼村は苦林村に隣り、且彼村に属せし玉林寺村には、苦林野の古戦場跡係りしことは、既にその村の条に弁せし如くなれば、川角村も元は苦林野の内なりしも知べからず、果してしからんには、いわれなき伝へとも言ふべからず、又今玉芳を開山とせずして、本秋を開山とすることは、恵源寺の末山に属せし時よりの事にてもあるべし、本尊正観音長八寸(約24.24cm)、行基菩薩の作なりといふ、

古碑二基

五輪の塔にして、闕損じたるものなり、其一は面に性源上坐とるし、永正□内□三年□□と刻す、又一は永真大師応永十年(1403年)壬辰十月廿一日と彫る、

国正寺

天台宗行人派、江戸霊厳嶋普門院末、本尊大日を安ず、