大塚村附新田(入間郡・入西領)
大塚村も川越城下より乾(北西)に当りて行程三里(約11.78km)、江戸よりは十三里(約51.05km)を隔つと云、下新堀村に及までの里数総て同じ、戸数四十八、東は中里村に隣り、南は上下浅羽の二村に接し、西は成願寺村に限り、又厚川の飛地に界ひ、北は峰村に及べり、東西九町(約981.82m)、南北三町(約327.27m)程、水田少くして陸田多し、用水には高麗川の水を引く、是は大久保村の地にて分水し、夫より村内へ漑ぐ故、動もすれば足ざるを患ふ、又洪水の時は彼川漲り来る故、水旱共に患多し、御入国の後本郷庄右衛門が知行に賜はりてより、子孫相続して今の丹後守に至る、検地は天明六年(1786年)時の地頭本郷大和守糺せり、又村の南に当りて当村持添の新田あり、こゝは御料所なり、享保年中の開発にして、明和九年(1772年)久保田十左衛門検地せしと云、
高札場
村の西にあり、
小名
坂上
しとめ田
仏堂
三願橋
道場坂
村の西小名坂の上にあり、聊の坂なり、地名の起りを尋るに、隣村成願寺は古大伽藍の建ちし寺にて、此辺までも其境内に属せり、故に坂の名おこれりと、此余仏堂三願橋などいへる小名も、寺跡の遺名なりといふ、
石上社
神体は長四尺(約1.21m)、横一尺(約30.30cm)許の赤き石なり、相伝ふ此社地の下は、昔高麗川の流通せし所にて、此神体は川中より出しものなりと云、かゝる石はいくばくも有べきものなるに、いかなれば殊更には祀りけん、其故を伝へず、今村の産神とす、社の建る所は登り二十間(約36.36m)許なる丘の上なり、明学院持なり、
全徳寺
普光山と号す、曹洞宗、多磨郡根ヶ布村天寧寺末、開山本寺第六世九山整重和尚、天正八年(1580年)六月十三日寂す、本尊千手観音を安置なせり、
天神社
稲荷社
明学院
本山修験、西戸村山本坊の配下なり、本尊不動を安ず、
屋敷跡
村の乾(北西)の方鎮守社の辺にあり、三畝(約297.52㎡)許の地なり、土人けんあん屋敷と呼ぶ、こゝは古へ此辺を領せし人の、親族たる人の、居跡なりとのみ伝へて文字も定かならず、幻庵或は玄菴など書せしにや、按に北条氏綱の弟長綱幻庵と称し、箱根に住せしなり、此辺はすべて北条氏の旧跡なればもしくは幻庵別業なるか、又夫より後のことならば、今の地頭本郷丹後守が先祖の親族にかく号せし人ありて、住せしも知べからず、とにかく年代等も伝へざれば考るに出なし、