新堀村(入間郡・入西領)

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新堀村は家数四十五、東は塚崎村に隣り、南は峯村に及び、西は堀籠村にして、北は戸口・金田の二村に界へり、東西の径り六町(約654.55m)、南北は九町(約981.82m)に及べり、水田多くして陸田少し、用水は越辺川をひき用ゆれど、屡足ざるを患ふと云、【小田原役帳】を閲るに当所にて十四貫二百八十一文の地を、酒井中務丞が領せしことを載せたり、又郡中大谷木村の豊民与兵衛が蔵せる毛呂氏の由緒書に、毛呂太郎長吉北条氏没落の後召出され、文禄五年(1596年)正月当所の内にて三百石の地を賜はりしが、後高麗陣の時供奉し大坂にも陪従し、剛気を争ひて疵を蒙れり、是より行歩心に任せざるを以知行を返し奉り、退て武州松山に隠棲し、入道して宗印と号して世を終りしと云、されど長吉がこと未他の所見なし、其後当所は三浦庄兵衛が知行所となりしが、又上地となりて元禄年中(1688年〜1704年)に土屋四郎次郎に賜はり、子孫今に至りて知行せり、

高札場

村の中程にあり、

小名

内出

新田

葛川

村の東にあり峯村より入て村の境を流れ、戸口村へ達す、川幅八尺(約2.42m)許

金山社

銅鏡 村の鎮守なり、金山権現と号せり、神体は銅鏡の如きものなり、其図は上に載せたり、按に銘文高麗郡葛□郷花ノ木宮と彫りたれど、高麗郡にはこの村名なく、郡内花ノ木村ありしかども、彼郡と此郡と接界にて、且桂庄に属し、村内葛茂川流れば、銘文葛郷の間茂の字にて、今は其唱を失ひたれど、元葛茂郷などの唱ありし村ならんか、もしさあらんには、此に高麗郡と彫りたるは訛りにて郡内花ノ木村に建りし神体ならん、夫を当社へ移せしは、如何なる故にや詳ならず、猶花ノ木村の条照し見るべし、

愛宕社

大福寺の持、

山王社

同持、

大福寺

天台宗、仙波中院末、薬王山釈迦院と号す、起立の由緒を尋るに、昔村内に東光寺と云寺あり、何の頃か衰廃して薬師堂のみ遺れり、又其頃東の方に釈迦堂ありしを、天正十二年(1584年)仙波より順栄といふ僧来て、此二堂を合せて本堂とし、終に一寺を起立せりと云、依て今順栄を開山とす、是より前のことは詳ならず、過去帳を閲るに秀山と云僧、貞和五年(1349年)六月八日寂せし由をのす、此秀山は当寺の開山なりとも又東光寺の開山ならんとも云て、慥なることを知ず、本尊不動の立像、其傍に薬師の木像を安ず、是は古の東光寺の本尊にて、行基菩薩の作なりと云、免田四畝(約396.69㎡)を附す、其山は村東にて元東光寺の境内なりし由、今の寺地は岡田治部と云ものゝ陣屋跡なりと云、

釈迦堂

前に云如く昔は村の東にありし堂なり、今も其跡に除地六畝(約595.04㎡)有と云、釈迦は坐像にして長二尺(約60.61cm)許り、行基菩薩の作なりといふ、

熊野社